指月城  No26104−09 (しげつじょう)       

発掘された石垣と堀 発掘された石垣

城郭の概要                  
(出土金箔瓦)
別  名 :  
所在地 : 京都市伏見区桃山町泰長老
築城年 : 文禄3年〜5年(1594〜96))
形  式 : 平城
遺  構 : ー
訪城日 : 平成27年6月20日 

歴   史
天正19年(1591)豊臣秀吉は、関白の位と聚楽第を甥の秀次に譲り、太閤となり、そして文禄元年(1592)に指月の岡に隠居のための屋敷を造営をする。しかし、実子・秀頼が誕生し秀次との関係が微妙なものとなり、文禄3年(1594)には天守などを備えた城郭として屋敷の拡張工事を開始した。これが指月城で、秀次が失脚・自害した後も整備は続けられ、文禄5年(1596)に完成したが、閏7月に起こった慶長大地震により多くの建物が倒壊してしまった。これを受け秀吉は指月城の北東側にある木幡山に新たな城郭・木幡山城と城下町の造営を開始している。

構造と感想
指月城の推定地とされる指月の岡は、宇治川に向かって傾斜する丘陵の南端に位置し、現在は団地などが立ち並ぶ市街地が形成され、地表面に明確な遺構は残っていない。
城域は、全体的に北東から南西に傾斜する地形で、南側は宇治川北岸の崖、東側は舟入りと称される巾約100m、高低差が約20mもある掘削された窪地により区画されている。北側は立売通へ両側が段差や斜面で落ち込んでおり、巾約20m、深さ2m以上の堀があったとされる。西側は豊後橋通と立売通交差点の南東側地下から南北方向と東西方向の石垣が発掘され、北西角部であるとされいる。以上のことから指月城の規模は、東西が約500m、南北が約250mと復元される。
平成27年の発掘は、推定地内の中心付近に位置しており、残存微地形や遺構の検出位置等から中心的エリアの西辺段を区画する石垣と堀跡であろうと推測されている。また、堀の埋土から多数の金箔瓦が出土し、指月城に直接関連する遺物が検出された意義は大きいい。

道 案 内
JR奈良線桃山駅の南側一帯が城跡推定地である。

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