利神城  No28501−01 (りかんじょう)       

三の丸から天守台を望む 天守台

城郭の概要                  
別  名 : 雲突城
所在地 : 佐用郡佐用町平福
築城年 : 元弘年間
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、石垣、堀切、竪堀、空堀、
訪城日 : 平成25年3月22日

歴   史
利神城の初見は『赤松家播磨作城記』で、元弘年間(1331〜33)に内海修理亮が居城したと記されている。その後も城主名が文献に記されており、14世紀後半から16世紀、天正5年頃にかけては別所氏が城主であった。
天正6年(1578)本家筋の三木城主・別所宗治が、織田信長の命を受け播磨に侵攻した羽柴秀吉に反旗を翻すと、利神城主の別所日向守林治もこれに従ったため、上月城の尼子勝久、山中鹿之助に攻められ落城、滅亡した。
同年、上月城は毛利氏に攻められ落城し、利神城は毛利方に属していた宇喜多直家の所有するところとなったが、その後、宇喜多氏は秀吉に従い、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍の主力として戦ったため、改易処分となった。
関ヶ原合戦後、播磨国を領した池田輝政が姫路城に入城し、甥の池田由之を佐用3万石の領主とすると、由之は5年の歳月をかけて三重の天守が建つ総石垣造りの城へと大改修を行った。また、山麓には、城主屋敷、武家町、対岸の街道沿いに町人地を設けるなど城下町も整備した。
しかし、完成した利神城を見た輝政は、その豪壮さに驚き、江戸幕府の警戒を恐れて、慶長12年(1607)三重の天守など主要建造物を取壊させ、慶長14年(1609)には由之を備前国下津井城の城番として移した。
その後、元和元年(1615)に輝政の6男・輝興が25千石を与えられ平福藩を立藩し利神城主となったが、寛永8年(1631)赤穂城へ移封となり、平福藩は廃藩となり利神城も廃城となった。
以後、この地は旗本松平氏の所領となり、宿場町の一角に代官の陣屋が構えられた。

構造と感想
大手虎口

利神城は、標高373.3mの利神山山頂の山城と西山麓の城主屋敷の二元構造になっている。山上の利神城は、最も高い天守台を中心に各尾根づたいに郭を配しT字形をしている。
天守台は不等辺五角形で、改修当初は三層の豪壮な天守が建てられたと伝わる。天守台の北東側から南東側に掛けてが本丸、本丸の北東側下方に鴉丸を、天守台の北西側下方に大阪丸を、天守台の南西側斜面を下って三の丸を、本丸の南東側一段下に二の丸、さらに二段の郭と細長い馬場が続き、馬場の外側に二重堀切を入れている。鴉丸と大坂丸は土づくりである。(名称は、佐用町商工観光課のチラシによる。)
この山頂の本丸を中心とした主要部の規模は、東西約200m、南北約400mにもわたり、総延長740mに及ぶ石垣が巡らされ、石垣の高いものは10m近い高さである。大手は本丸の西面中央に桝形虎口がほぼ完存している。
総石垣造りの近世城郭であるが、江戸時代初期に廃城になっており、いたる所で石垣が崩落し、また、大きくはらみ今にも崩れそうになっている。完存していれば竹田城に匹敵する城郭である。
麓の城主屋敷も石垣や石塁で築かれているが、残念なことに智頭線の線路が屋敷跡をぶち抜き通されたため、遺構の一部が破壊されている。


道 案 内
中国自動車道の佐用インターを下りて佐用インター交差点を左折し国道373号に入る。北に2.6km程来ると道の駅「宿場町ひらふく」で、その250m程先で右折し、県道443号線に入る。県道443号線を北東に1.3km程行き右折すると林道に入る。林道を1.5km程上ると行き止まりで駐車スペースがある。小さな案内板の所から山道を10分も登れば城跡に至る。

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      二の丸南西面の石垣            城主屋敷の石塁
 
     遠望            本丸北西隅石垣と郭