赤穂城  No28212−01 (あこうじょう)       

本丸厩口門(台所門) 三の丸大手隅櫓

城郭の概要                  
別  名 : 加里屋城、大鷹城
所在地 : 赤穂市上仮屋
築城年 : 慶安元年(1661)
形  式 : 平城
遺  構 : 天守台、復元櫓、復元門、石垣、堀、復元池泉、
訪城日 : 平成21年6月21日

歴   史
この地での築城は、享徳年間(1452〜54)赤松満祐の一族である岡豊前守満景の大鷹城、文正元〜文明15年(1466〜83)の岡豊前守光広による加里屋城があり、さらに慶長5年(1600)関ヶ原の戦功により姫路城主となった池田輝政の所領となって、慶長18年(1613)家臣垂水半左衛門勝重が浦手奉行として掻上城を築いている。
その後、元和元年(1615)池田輝政の五男政綱が3万5千石で入封、寛永18年(1641)政綱が嗣子無く没し、政綱の弟輝興が利神城から入封したが、正保2年(1645)に発狂により改易となり、常陸国笠間から浅野長直が入封した。
浅野長直は、幕府の許可を得て、家老で軍学師範の近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年を費やし、寛文元年(1661)に赤穂城を完成させた。その間の承応2年(1653)に来訪した著名な軍学者であった山鹿素行の指導を受け、二の丸虎口を改造したと伝わっている。
浅野家は、長直、長友、長矩と続くが、三代長矩は元禄14年(1701)江戸城松の廊下で高家筆頭の吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、播州浅野家は断絶となった。元禄15年12月大石内蔵助を始めとして四十七士は主君の無念を晴らすため吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち取っている。この仇討ちは、歌舞伎、浄瑠璃、講談の演目として取り入れられ「忠臣蔵物」として演じ続けられている。
浅野家断絶の後は、元禄15(1702)永井直敬、宝永3年(1706)に備中西江原より森長直が2万石で入封し、この森家は明治の廃藩まで12代に渡って続いた。
昭和46年国の史跡指定を受け、平成14年には本丸庭園と二の丸庭園が国の名勝に指定されている。

構造と感想
赤穂城の縄張りは、本丸と二の丸が輪郭式に、二の丸の北側に三の丸が梯郭式に配置され、変形輪郭式の海岸平城となっている。本丸の東側には天守台が築かれているものの、天守は建築されなかったが、泰平になっての築城で軍学の影響を強く受け、銃砲撃戦を意識した設計で、十字砲火が可能なように稜堡に似た横矢掛かりが多用され、城郭史上も貴重な遺構とされる。そして、5万石程度の外様大名の居城としては、規模が大きい立派な城である。
明治の廃藩後は、民有地となり城郭遺構もかなり改変を受けたが、昭和27年に都市公園の計画決定がなされて以降、城内の公有化と復元整備が進められている。昭和30年の三の丸の大手隅櫓と大手門の復元が最初で、その後も本丸に櫓門の本丸門、厩口門が復元され、また、本丸御殿の間取り平面や池泉も復元されている。二の丸・三の丸一帯も発掘調査が行われており、順次 復元・整備が行われる。
城郭の以外にも、三の丸に大石良雄宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門が現存し、また、大石内蔵助良雄以下四十七義士を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森氏の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸らが合祀される大石神社が建立されており、見所の多い楽しめる城跡である。

道 案 内
 (大石良雄宅跡長屋門)
山陽自動車道赤穂インターを下り左折して県道96号線に入る。300m程南下した新田交差点で左折して国道250号に入り、道なりに1.9km程進んだ塩屋惣門交差点で左折する。東に900m程行ったJR赤穂駅前で右折し、県道32号線に入り、南に770m程行った濠端の信号交差点で右折し、濠沿いを西に140m程行き左折する。大石神社沿いを道なりに260m程行き左折して神社駐車場に入る。ここが既に三の丸である。
    

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