磯野氏の居館です。
京極氏が衰退する中で家臣間の覇権争いが起こり、永正14年(1517)(伊香郡志は天文元年(1532)の誤りとしている。)に浅井亮政が上坂氏などを駆逐し、これに対抗し浅見対馬守が山本山に立て籠り、磯野員詮(貞詮)は浅見氏に味方して磯野山城に立て籠った。浅井亮政は磯野山城を攻撃したが、員詮と子の為員の奮戦で浅井勢は撃退された。
しかし、磯野一族の宮沢忠左衛門が浅井方に篭絡され、浅見氏の山本山がふたたび攻められたため、為員が山本山の支援に出陣した際、忠左衛門は男子平八郎や浅井方の兵らとともに、為員の帰路を待ち伏せした。為員は奮戦したものの、すでに矢種はつきており討ちとられてしまった。
その後、平八郎は佐和山城主磯野伊予守員吉の養子に迎えられ、員宗と名乗り佐和山城主になり、その子が磯野丹波守員正(員昌)で浅井氏の重臣として元亀元年(1570)の姉川合戦にも出陣、戦況の不利を見て佐和山城に退却し8ケ月間に亘り籠城するが、小谷からの後詰めが得られず、元亀2年(1571)ついに開城、織田信長に従い高島郡を与えられる。しかし、天正6年(1578)に追放されてしまう。
磯野氏は、湖北四家(赤尾氏、雨森氏、井口氏、磯野氏)に数えられた有力氏族で、特に員昌は歴代の中で最も名を馳せている。 |