No25501-5 磯野舘 (いそのやかた)       

南側の門 東側の石積み

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 伊香郡高月町磯野
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(居舘) 
遺  構 : なし
訪城日 : 平成22年2月11日

歴   史
磯野氏の居館です。
京極氏が衰退する中で家臣間の覇権争いが起こり、永正14年(1517)(伊香郡志は天文元年(1532)の誤りとしている。)に浅井亮政が上坂氏などを駆逐し、これに対抗し浅見対馬守が山本山に立て籠り、磯野員詮(貞詮)は浅見氏に味方して磯野山城に立て籠った。浅井亮政は磯野山城を攻撃したが、員詮と子の為員の奮戦で浅井勢は撃退された。
しかし、磯野一族の宮沢忠左衛門が浅井方に篭絡され、浅見氏の山本山がふたたび攻められたため、為員が山本山の支援に出陣した際、忠左衛門は男子平八郎や浅井方の兵らとともに、為員の帰路を待ち伏せした。為員は奮戦したものの、すでに矢種はつきており討ちとられてしまった。
その後、平八郎は佐和山城主磯野伊予守員吉の養子に迎えられ、員宗と名乗り佐和山城主になり、その子が磯野丹波守員正(員昌)で浅井氏の重臣として元亀元年(1570)の姉川合戦にも出陣、戦況の不利を見て佐和山城に退却し8ケ月間に亘り籠城するが、小谷からの後詰めが得られず、元亀2年(1571)ついに開城、織田信長に従い高島郡を与えられる。しかし、天正6年(1578)に追放されてしまう。
磯野氏は、湖北四家(赤尾氏、雨森氏、井口氏、磯野氏)に数えられた有力氏族で、特に員昌は歴代の中で最も名を馳せている。

構造と感想
遺構は残っていないが、訪れた日は、村おこしの行事「磯野山城を探る」が催された日で、磯野氏の末裔の方々が集まられていた。磯野山城の山裾のお家は、今も格式を感じる家構えで、表門と中門を備え、本屋は三間続きの大きな建物である。
地元の方から員昌は追放された後、この磯野に帰り生涯を過ごしたとの伝承が残っていると聞き、地元の方の員昌への強い敬慕の念が感じられた。

道 案 内
国道8号の木之本IC口交差点から西(敦賀方面)に820m程行った大音交差点を左折し、県道44号に入り、南(長浜方面)に2.6km程行ったT字路を左折する。(T字路から100m程先の左手に余呉川に架かる新川橋がある。)東に50m程行った右手が舘跡である。南側が医院の駐車場だったと思う。

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