No25501-6 磯野山城 (いそのやまじょう)       

主郭の土壇 主郭北西の堀切

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 伊香郡高月町磯野・松尾
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高(271m)
遺  構 : 土壇、堀切、土橋、竪堀
訪城日 : 平成22年4月5日 尾先の見張り台

歴   史
磯野氏の居城(詰城)である。
江北の守護・京極氏が衰退する中で家臣間の覇権争いが起こり、永正14年(1517)(伊香郡志は天文元年(1532)の誤りとしている。)に浅井亮政が上坂氏などを駆逐し、これに対抗し浅見対馬守が山本山に立て籠り、磯野員詮(貞詮)は浅見氏に味方して磯野山城に立て籠った。浅井亮政は磯野山城を攻撃したが、員詮と子の為員の奮戦で浅井勢は撃退された。
しかし、磯野一族の宮沢忠左衛門が浅井方に篭絡され、浅見氏の山本山がふたたび攻められたため、為員が山本山の支援に出陣した際、忠左衛門は男子平八郎や浅井方の兵らとともに為員の帰路を待ち伏せした。為員は奮戦したものの、すでに矢種はつきており討ちとられてしまった。
その後、平八郎は佐和山城主磯野伊予守員吉の養子に迎えられ、員宗と名乗り佐和山城主になり、その子が磯野丹波守員正(員昌)で浅井氏の重臣として元亀元年(1570)の姉川合戦にも出陣、戦況の不利を見て佐和山城に退却し8ケ月間に亘り籠城するが、小谷からの救援が得られず、元亀2年(1571)ついに開城、織田信長に従い高島郡を与えられる。しかし、天正6年(1578)に追放されてしまう。
磯野氏は、湖北四家(赤尾氏、雨森氏、井口氏、磯野氏)に数えられた有力氏族で、特に員昌が歴代の中で最も名を馳せた武将である。

構造と感想
磯野山城の主郭は台形で2乃至3段の腰郭を伴っている。しかし、郭には堀や土塁といった囲み施設がなく、また、変形かつ多様な形態をしていて、大きな特徴となっている。これは明確な縄張りを持って構築されたのでなく、古墳等の遺構や自然地形をそのまま利用したためと考えられている。
一方、主郭までの尾根筋には、竪堀・堀切が14条前後もあり、その間には尾先の大森地先郭群と山腹の松尾寺砦が設けられ、主郭までの防御が強固であることも特徴とされている。
この城は、天文元年(1532)の浅井氏との戦い後に使用された記録、痕跡がなく、全体に古い形態を残しており、16世紀代の城郭の基準資料として重要とされている。
この城は、主郭部から遠く離れた尾根筋に幾重にも堀切が設けられており、どこまでが城域なのかよく分からない城だ。どれ程の兵力でどこまでを守ったのかも想像できない。
近年、磯野集落の有志が磯野山城を核にした村おこしに取り組まれており、中腹に看板を設置し、城跡までの案内板や倒木整理に努められているので、磯野集落側から尾根筋を登ると安全に楽に城跡に辿り着くことが出来るようになって、大変ありがたい。

道 案 内
国道8号の木之本IC口交差点から西(敦賀方面)に820m程行った大音交差点を左折し、県道44号に入り、南(長浜方面)に2.7km程行って右折する。直ぐに余呉川に架かる新川橋を渡り右折する。南の下流方向に50m程行き堤防に駐車する。そこから徒歩で山裾に向かい、裾沿いを100m程南進した所の切り通しから西の尾根筋道を登ると30分程で城跡に至る。

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