No25482-1 虎御前山砦 (とらごぜやまとりで)       

信長陣跡の碑 信長陣の切岸

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 東浅井郡虎姫町中野、湖北町河毛・別所
築城年 : 元亀3年(1572) 
形  式 : 陣城(標高230m)
遺  構 : 横堀、堀切、竪堀、土塁、虎口、櫓台、土抗、
訪城日 : 平成22年4月4日

歴   史

南北朝前期の観応2年(1351)9月7日足利直義が当山に布陣し、同12日に兄の尊氏と合戦に及ぶも敗走している。
浅井氏時代にも砦が構えられ、井口弾正、八相遠江守則佑、同頼佑、同長佑、後に東野行成が入城したとの記録が残る。
元亀元年(1570)6月姉川の合戦で織田信長に敗れた浅井長政は小谷城に籠城した。これに対し信長は、横山城に定番として木下藤吉郎を入れ、浅井領内や小谷城への攻撃を続けさせた。
小谷城包囲網は狭められ同3年(1572)7月21日には、信長が小谷城に迫り、小谷城眼前の虎御前山に兵を上げ、27日から虎御前山・八相山・宮部で築城を開始し、8月8日には砦や軍道を完成させた。その後は、信長の本陣も横山城より当城に移され、定番に木下藤吉郎を任命し、持久戦に備えた。
翌4年(1573)8月武田信玄や本願寺を始めとする信長包囲網が崩壊すると、小谷城への総攻撃を開始し、浅井久政・長政父子を自刃に追い込み浅井氏を滅亡させた。


構造と感想
虎御前山は、小谷城の正面500m程の距離にあり、四方を見渡せる独立の山丘で、小谷城攻略の付城を構える絶好の位置にある。ほぼ全山に亘り砦を築き、家臣を配置している。
最も北が伝柴田勝家陣、その南が伝木下藤吉郎陣で最前線となる。そこから南西に伸びる尾根筋に砦が連なっている。
木下藤吉郎陣は、中央に楕円形の土壇(墳丘か?)が置かれた一辺50mの三角形の郭と2、3段の帯状腰郭からなっている。三角形の郭は低土塁がほぼ囲繞している。東側の虎口を下ると北側に低土塁が付設された帯郭が70m先まで伸びおり、佐久間信盛の陣跡と伝わる。南側の虎口は、両側を竪土塁で守られた堀状通路となっている。これより南の伝織田信長陣までの間は、細尾根で削平してある。北西尾根には、内側に土塁を伴う堀切が設けられている。
信長陣は、南北に並ぶ五つの郭と南東尾根上に伸びる通称「先兵陣地跡」の郭群から成っており、この山の最高所に位置することから虎御前山砦の中枢部と考えられている。北から2番目の郭は、北・東・西を高い切岸で防御され、南に長枡形虎口を設け、その南へ階段状に4段の郭が直線的に配置され、また、東側は横矢掛かりのある切岸となっている。最下段の郭は、廊下状の郭となり、伝堀秀政陣・滝川一益陣へと続く。
堀秀正陣は、三つの高台からなり、南の台と真ん中の台の間に大きな喰い違いの堀切があり区画され、南端も堀切で仕切られている。
これより南は、滝川一益、丹羽長秀、蜂屋頼隆、多賀貞能陣跡が連なるが、改変で遺構の残りが悪い。
信長陣の高い切岸や木下藤吉郎陣の土塁に虎口、土抗などに見応えがある。
目と鼻の先に大軍が陣取った時、浅井方はどの様な気持でこれを見守ったのであろう?

道 案 内
 藤吉郎陣の土塁
県道37号線の長浜IC口交差点を西に330m程行った山階町東交差点で右折し、北に県道510号線を道なりに4.3km程行くと左手に虎姫時遊館への案内板がある。その交差点を左折し、西に1.3km程行くと虎姫時遊館に至り、こそで右折して橋を渡る。その先70mで右折し、北東に80m程行った左手側に山に上がる道があるので、その山道を1km程登っていくと道路終点でキャンプ場があり駐車できる。
電波塔の北側に伝滝川一益陣跡がある。その北に陣跡が続いている。
                  

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