No25203-6 横山城 (よこやまじょう       

北主郭より小谷城を望む 南主郭と土塁

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 長浜市石田町・堀部町、米原氏鳥脇・朝日
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高312m)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、井戸         
訪城日 : 平成22年5月3日 南主郭の井戸

歴   史
創築年代は不明であるが、当初は京極氏の支城として築かれ、永正14年(1517)に浅井亮政が攻め落としている記録が残る。翌年には、浅井氏を攻撃するため六角定頼が修築したとされる。
その後、六角氏と浅井氏の対立激化に伴いそれぞれの前進基地として争奪が行われたが、浅井氏の勢力拡大とともに、浅井氏の南進基地として重要性を増し、永禄4年(1561)浅井長政によって本格的に改修され、浅井井演が入れ置かれたようである。
元亀元年(1570)の織田信長の越前・朝倉攻めに際し、浅井長政が離反、信長の背後を突いたが、信長は間一髪で京へ逃れ、岐阜へと帰還する。
信長は、体制を立て直し、浅井氏の支配する江北に侵攻、横山城を包囲した。これに対し、後詰めに出張った浅井・朝倉軍と姉川において合戦に及び、敗走させた。
合戦翌日の6月29日に横山城は、羽柴・池田・柴田らの猛攻を受け落城、信長は羽柴秀吉を城将とし、小谷城を監視させた。
天正元年(1573)浅井氏が小谷城に滅亡すると、江北3郡は秀吉に与えられ、秀吉は新たな居城として長浜城を築城して移転。横山城は廃城となった。

構造と感想 二重堀切(手前と奥に堀切)
長浜市と米原市の境界をなす横山丘陵最高地から三方に伸びる尾根上に位置している。
丘陵最高地に北城、南の尾根に南城が築かれ、「別城一郭」の構造を呈している。
北城は、主郭の西と北に伸びる尾根を階段状に削平し、西尾根に二重堀切を、北側にも堀切を設け区画しているが、土塁は部分的で単調な構造である。
南城は、長方形の主郭の四囲に土塁を巡らせ、北西に虎口を開いている。主郭北部の一段低い副郭には井戸も残る。さらに周りに竪土塁や竪堀などがあり、北城に比べ発達しており、築城時期に違いがあるとされる。
天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦に備え、羽柴秀吉が改修した可能性も指摘されている。
北主郭からは浅井氏の主要領地の江北平野や琵琶湖、江濃国境の刈安尾城が一望出来る。山道もしっかりしており、里山ハイキングにピッタリの山城である。

道 案 内
北主郭の城址碑と説明板
県道37号線の長浜IC交差点から東に2.7km程行った東上坂町交差点を右折し、県道243号線に入る。南に道なりに1.9km程進み石田バス停のある十字路に出る。十字路を直進し100m程行き右折、西に70mの所が石田舘跡(石田三成の生誕地・石田会館)で駐車ができる。
横山城へは、そこから徒歩で十字路に戻り、右折して東に190m程行った日吉神社から西尾根を登る。北城から南城へと山道が続いている。
                

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