No25464-11 箕浦城 (みのうらじょう)       

主郭跡 横矢掛かり堀跡水路

城郭の概要
別  名 : 新庄城
所在地 : 坂田郡近江町箕浦
築城年 : 不詳
形  式 : 平城
遺  構 : 土壇、堀跡水路、                  
訪城日 : 平成23年12月11日

歴   史
箕浦城は、箕浦庄の国人領主・今井氏の居城跡である。
箕浦庄の北部をしめる後鳥羽院御影領は、鎌倉時代には箕浦氏が地頭に補されていたが、箕浦氏が室町時代に京極高氏(道誉)によって柏原(旧山東町)に移封された後、京極氏の被官である「今井氏」の祖がこの地に補せられて住まいし、天野川流域に堀・顔戸・今井・安食・岩脇・若宮、林・寺倉・広田・新庄・井戸村等の庶流を広げ国人領主に成長した。
今井氏は、藤原秀郷の後裔と伝えられ、藤原俊綱(九郎)を祖とする。応仁の乱では美濃守高遠が京極持清に従って活躍したが、のちに京極氏の内訌に乗じて高延を要し台頭する浅井氏を嫌って、高慶(六角氏が支援)方に付き、享禄元年(1528)に浅井郡に侵攻し内保合戦を戦うも敗れ、領地を失う。享禄4年(1531)の箕浦合戦では、今井秀信(秀俊)は浅井氏に与し戦ったが、浅井亮政に六角氏への内通の嫌疑を掛けられ、天文2年(1533)に神照寺で自殺に追いやられた。
遺児の定清は一門・家来とともに六角氏に庇護を求め、敏満寺に十余年に亘り籠城を余儀なくされた。その後、浅井氏を臣従させた京極高広が六角氏との合戦に備え、今井定清を誘い箕浦城に戻したが、浅井氏が戦国大名へと成長すると、やがて浅井氏に従うようになり、元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦では、浅井方として戦ったが敗れて失脚した。
元亀2年(1571)には、浅井方から寝返った堀・樋口氏がこの城に入った。浅井長政は、これに対し江北十ケ寺の一向一揆勢の力を借りて5千の軍勢で堀秀村の箕浦城を攻撃した。横山城の木下藤吉郎はこれを知り箕浦へかけつけ、一揆勢を中心とした浅井軍は統率がとれず余儀なく後退し、下長沢やさいかち浜、下坂浜、今浜で衝突をくりかえしたが、わずか5・6百の木下藤吉郎・堀秀村軍に敗れた。これが箕浦合戦である。

構造と感想
野川北岸に井戸村屋敷、奥屋敷、新庄城が横一列に並んで構えられ、大字新庄内にある小字殿城とその南に隣接する小字的場付近の里城跡が今井氏の居館跡である。
現在も水田の中に方形の土壇が残り、これが今井氏の居館と考えられている。その西側は、南北に細長い周囲より一段低い水田(現在は残っていない。)が堀跡である。東側や南側は水路で区画され、水路には今でも随所に直角に折れ曲がった横矢掛かりが残っている。北側は、通船川までで、川沿いに3m程の畑が東西に延びており、土塁の基底部と考えられている。
殿城の西側堀跡を隔てた通称「奥屋敷」と呼ばれるところが、今井氏一族の井戸村氏の屋敷と伝えられる。この井戸村氏の残した文書に箕浦庄内に八日市市場があったと記され、集落中心の八幡神社の地蔵堂付近(箕浦・宝福寺付近)が比定されている。
箕浦の地は、小谷道と朝妻街道の分岐点で交通の要衝で、市場も形成され繁栄していたが、その面影は今は残っていない。

道 案 内         
 通船川と土塁基底部
国道21号の米原IC口交差点を西に2.1km程行った西円寺交差点で右折する。国道8号に入り北に1.1km程行った顔戸南交差点で右折し、東に410m程行くと近江町役場前交差点で、そこを右折し南に260m程進んだT字路を左折する。路地を東に60mで右折、南に50mで左折、東に150m程行った光常寺の南西一帯が城跡である。
寺の西側の農道を入って行くと田んぼの中に一段高い土壇があり城趾碑が設置されている。

TOPへ 戻る