No25203-1 新庄寺城 (しんじょうてらじょう       

南側の土塁 北側の土塁

城郭の概要
別  名 : 神照寺城
所在地 : 長浜市新庄寺町
築城年 : 室町期
形  式 : 城郭寺院
遺  構 : 土塁、堀、池      
訪城日 : 平成22年2月13日 外門

歴   史
寛平7年(895)宇多天皇の勅命により、益信僧正(本覚大師)が初代住職となり建立された。
観応2年(1352)9月下旬には、足利義詮(のちの2代室町将軍)が足利尊氏の実弟直義を討つべく布陣し、11月2日に尊氏は和解のため浅井郡錦織の興福寺にて兄弟対面をして、帰りに神照寺に宿泊している。(このとき尊氏が境内に萩を植えたと伝わり、現在も萩の寺として有名である。)
大永3年(1523)京極高広(高延)と高慶兄弟が対立した際、当寺が高慶の陣所となり兵火で焼失し、浅井氏が旧観通りに再建を行っている。
浅井亮政は、天文2年(1533)に神照寺で今井秀信(秀俊)を謀殺している。
元亀元年(1570)の姉川合戦や天正元年(1573)の小谷城落城の兵火にも遭い衰退したが、天正11年(1583)豊臣秀吉が天下を統一すると安堵状を受け、再興を果たしている。
江戸時代に醍醐寺(真言宗醍醐派)の末寺となり、明治時代中ごろ智山派に転派して今日に至っている。   

構造と感想
寺院が要塞化したもので、中村川を堀とし、内側の北面に東西80m、西面に南北60mにわたって僅かに土塁が残っている。南面にも内門前から稲荷神社横にかけて土盛り跡が認められる。
寺から約200m南に外門があり、外門の外側に鬼川とその引水路を利用した堀が設けられ、さらに内側には中村川から分かれた なまず川 が熊野神社や般若院を取り囲んでおり、二重の堀を持つ構造であったと考えられている。
萩の時期には多くの参拝者が訪れ賑やかである。

道 案 内
県道37号線の長浜IC交差点から西に1km程行くと国道8号の川崎町交差点に出る。その交差点を右折し、国道8号線を北に1km程進むと国道は左に大きくカーブする。カーブを過ぎた直ぐの神照小学校東交差点を右折し、北に350m程行ったT字路で左折する。西に90m程行った左手に新庄寺町公会堂があり、その辺りに駐車して右側の参道を北に100m程行くと神照寺である。

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