敏満寺城は青龍山の西麓に位置し、胡宮神社付近に本堂があり、その北西に延びる台地上に120余の坊舎が建ち並んでいたとされる。敏満寺城は台地先端部の南側に築かれ、寺領であった大字敏満寺を一望のもとに見下ろすことができた。
現在も残る城郭遺構は三角形の土塁が廻る郭と大きな空堀のみで、土塁には2か所の櫓台が、郭には石積み石段を伴う枡形虎口などが状態良く残されている。発達した虎口形態から元亀争乱の時に改修されたこと考えられている。
No25443-06 | 敏満寺城 | (びんまんじじょう) |
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櫓台 | 虎口 |
◆ 城郭の概要 | ![]() 敏満寺跡碑 |
別 名 : | |
所在地 : 多賀町敏満寺 | |
築城年 : 戦国期 | |
形 式 : 平山城(寺院城郭) | |
遺 構 : 土塁、空堀、櫓台、虎口、石積み、 | |
訪城日 : 平成21年11月23日 |
◆ 歴 史 |
敏満寺は、9世紀末から10世紀初頭に開基された天台密教寺院で、室町時代には湖東の一大寺院となった。敏満寺は、その勢力故に近江を支配していた佐々木六角氏や佐々木京極氏と対立するようになり、応仁の乱以降は山門の一翼を担い、ことあれば僧兵を動員することになり、
寺は要塞化した軍事拠点となっていったとされている。 永禄3年(1560)浅井長政は久徳城を攻め、久徳氏を亡ぼした後、永禄5年に久徳氏に味方したた敏満寺を攻め、学頭以下800人が戦死し、120余りあったといわれる坊舎のほとんどは焼失した。 翌年一部再建されるが、元亀3年(1573)には織田信長の寺領召し上げに抵抗したため、残りの坊舎をことごとく焼かれ廃寺・廃城となった。 慶長年間には(17世紀初頭)には、彦根城築城のため残った礎石までも運び去られたといわれている。 |
◆ 構造と感想 | ![]() 縄張図 |
敏満寺城は青龍山の西麓に位置し、胡宮神社付近に本堂があり、その北西に延びる台地上に120余の坊舎が建ち並んでいたとされる。敏満寺城は台地先端部の南側に築かれ、寺領であった大字敏満寺を一望のもとに見下ろすことができた。
現在も残る城郭遺構は三角形の土塁が廻る郭と大きな空堀のみで、土塁には2か所の櫓台が、郭には石積み石段を伴う枡形虎口などが状態良く残されている。発達した虎口形態から元亀争乱の時に改修されたこと考えられている。 |
◆ 道 案 内 |
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を東多賀方面に6.6km程行った名神高速道ガードを越えた直ぐのところを右折する。名神側道に入り280m程先を左手に220m程進んで右手に入り駐車する。上が多賀サービスエリア上り線で大阪方面の本線に出る手前にあるガソリンスタンドの名古屋側が城跡である。 また、下りSAのガソリンスタンド背後一帯にも土塁が残る。 |
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