No25443-03 久徳城 (きゅうとくじょう)       

城趾碑 本殿周囲の空堀

城郭の概要
広場東側の土塁跡
別  名 :
所在地 : 多賀町久徳
築城年 : 不詳 
形  式 : 平城(居館)
遺  構 : 土塁、
訪城日 : 平成22年3月14日      

歴   史
久徳氏は、近江中原氏の支流である多賀氏の分れで、多賀兵庫助高信の子二郎定高を祖とする。高定は、多賀氏一族として京極氏に仕え、諸処の合戦における戦功により久徳の地を賜り久徳城を築き、久徳氏を称したとされる。
戦国期、江北京極氏と江南六角氏の争いの中で主君を変えながら生き延びてきたが、五代実時のとき伸張著しい浅井長政に母を人質に出して浅井氏に属したが、巻き返しを狙う六角義賢(承禎)は久徳氏、高宮氏、新庄氏らに調略の手を伸ばし、実時は六角氏に転じ、永禄2年(1559)六角軍と共に高宮城を攻めた。これに対し浅井長政は人質である実時の母を処刑し、新庄・磯野氏らに命じて翌永禄3年久徳城を攻撃させた。久徳城は六角氏の援軍を待つ間に、城主左近太夫はじめ城兵ことごとく討死して落城した。
その後、久徳一族は六角氏の庇護を受けたが、永禄11年(1568)織田信長の上洛に抵抗して六角氏が没落すると織田氏に属するようになった。元亀元年(1570)浅井長政が織田信長と対立するようになり、姉川の合戦が起ると宗重・宗頼・郷時・秀政ら実時の弟たちが織田方として浅井勢と戦い、宗重は信長から三千石の黒印状を賜り、久徳氏は久徳城に復帰した。翌元亀2年には、浅井氏の命を受けた高宮三河守の攻撃を撃退している。
浅井氏が滅亡後は豊臣氏に仕えたが、関が原の合戦に際して西軍に加担したことから、所領を没収され、久徳一族は四散した。

構造と感想
久徳城は、大字久徳の市杵島姫神社と南側の広場から東側集落の全てが城域であったとされ、東西200m、南北200m程になる。広場の東側には土塁が、市杵島姫神社本殿の周囲には幅5m,深さ1m~2mの空堀が残っている。
また、集落の北東あたりの里道や水路が円弧状になっていて、それに沿うように土塁や空堀の僅かな痕跡が残り、この城は円郭式縄張りの平城とされている。
久徳城の大手門は、大手橋と称される南の芹川沿いで、芹川が外堀の役目を果たしていたと考えられている。搦手は霊山寺があったと伝わる北西あたりとされている。
なお、霊山寺は久徳氏の菩提所で幾つかの代々の墓石が残されている。

道 案 内            
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を東に4.1km程行った国道が右に大きくカーブする手前のY字路(「河内風穴」の看板がある所)を左方向に県道17号に入る。県道を東に280m程進み右折して南に90m程行った左手・東側が「市杵島姫神社」で城跡である。

TOPへ 戻る