No25202-13 高宮城 (たかみやじょう)       

城趾碑と説明板 堀跡か

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 彦根市高宮町
築城年 : 不詳
形  式 : 平城(居館)
遺  構 : -
訪城日 : 平成22年10月11日   

歴   史
高宮氏には二つの流れがあり、鎌倉時代末に地頭として入部した紀伊櫟氏を祖とする高宮氏と六角氏頼の三男信高を祖とする高宮氏である。高信は足利四代将軍義持に仕え、応永24年(1417)の上杉禅秀の乱で軍功を挙げ、高宮・大堀・沼波などの五か村を与えられ高宮の地に移った。前者を北殿、後者を南殿と呼び、北殿はしだいに南殿に勢力を奪われ弱体化していった。
南殿高宮氏は、出自から長く六角氏に従っていたが、京極氏に寝返り、京極氏から浅井氏に支配が移っても浅井氏に仕えた。
永禄2年(1559)浅井賢政(長政)が六角氏への対立姿勢を明らかにすると、六角義賢は浅井方の佐和山城攻略を窺い、多賀久徳城主・久徳左近太夫実時を調略し、浅井氏からの離反に成功した。
久徳左近太夫は娘を輿入れさせている高宮城主・高宮三河守頼勝へ六角方に内応することを勧めたが頼勝は応ぜず、六角勢は高宮城を攻め落城させた。
これに対し、浅井長政は人質としていた久徳左近太夫の母親を処刑するとともに、永禄3年新庄・磯野氏らに久徳城の攻撃を命じ、城主の左近太夫はじめ城兵を悉く討ち取り落城させた。
浅井長政と織田信長が同盟関係にあった頃は信長の宿所として何度か高宮城が利用されているが、長政と信長の関係が悪化すると信長に攻められて多くの高宮氏一族が戦死した。
天正元年(1573)8月28日、小谷城で当主・高宮宗光と一族の郷光・勝義が戦死。宗光の子・宗久は高宮城に帰城。翌29日、城に火を放ち高宮城と高宮寺は炎上したそうである。宗久を始めとする高宮一族は、各地へ離散し、城跡も江戸期を通して藪に覆われていたそうである。 

構造と感想
城跡は、高宮小学校や高宮幼稚園となっており、グランドの北西角に城趾碑と案内板が立てられている。
遺構は残っておらず、周囲より一段高くなった敷地と高宮小学校の北側に流れる外堀跡とされる五社川(化粧川)に痕跡が見られる程度である。この化粧川は、上流の久徳城主の姫が水利の悪い高宮の高宮三河守に輿入れした祭の持参金ならぬ持参水との伝説がある。
なお、以前には高宮小学校グランドに高宮城ゆかりの井戸があったようだが、埋められてしまったとのことである。
化粧川と呼ばれる外堀跡向かいの徳性寺の山門や両袖の石塁や土塁により遺構らしさが感じられる。

道 案 内            
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を西に750m程行った外町交差点を左折する。国道8号に入り3.5km程南進した高宮町南交差点で左折し、東に620m程行った右手にある徳性寺手前を右折する。その先100mの所(高宮小学校)が城跡である。

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