No25464-1 能登瀬城 (のとせじょう)       

道端の城址碑(この北西一帯が城跡) 横矢掛かりの折れ

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 坂田郡近江町能登瀬
築城年 : 室町期
形  式 : 平城 
遺  構 : 堀跡、
訪城日 : 平成22年2月21日

歴   史
能登瀬城は、江北の国人領主で京極氏根本被官の堀氏の居城であったとされる。堀氏の所領は、江北と江南の境目に位置し、力の強い勢力の影響を受けて京極・六角・浅井・織田・木下・徳川に付き従い戦国時代を生きのび、江戸時代には旗本として存続している。
大永5年(1525)・天文7年(1538)の2回にわたる六角氏の浅井攻めに際し、六角定頼が堀氏に対し陣立注文を出している。また、鎌刃城主であった堀二郎秀村は、浅井氏家臣として元亀元年(1570)姉川合戦の折に浅井軍の先峰として長比城を守備していたが、織田信長に寝返り戦わずして開城した。織田方についた堀氏は、激怒した浅井方の反撃で一度は鎌刃城を失うが、浅井氏の勢力の弱まりで再び鎌刃城主に復帰している。元亀2年(1572)には、蟄居させられた浅井氏家臣・今井氏に代わり箕浦城主となり、浅井方の攻撃(箕浦合戦)を退けている。
しかし、天正2年(1574)に信長の命で家老・樋口直房は越前一向一揆と木ノ芽峠砦で対峙していたが、勝手に和睦して戦線を離脱したため成敗され、また、秀吉との軋轢もあり堀二郎秀村は改易された。その後、木下秀長に召し抱えられている。

構造と感想
集落中央から西の東西180m、南北120mの水路に囲まれた範囲が城跡され、この中程に現堀家が位置している。東側、北西側、西側に細長い地籍が残っており、水路と共に守備の構えとしての長屋跡と考えられている。
城は、東、北、西を大きく山に囲まれ、北には湿泥田も広がり、西の小丘には小砦が設けられ、南正面は天野川が流れる天然の要害地である。
しかし、遺構らしきものは、何も残っていない。

道 案 内
国道21号米原IC口交差点を西に490m程行った北陸自動車道を越えて直ぐのT字路を右折する。北に510m程行った集落内の十字路で左折し、西60m先の道路沿い右手に説明碑がある。

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