No25442-01 勝楽寺城 (しょうらくじじょう)       

見張り台の角石垣 見張り台の土壇

城郭の概要
 鞍部の細尾根
別  名 :
所在地 : 甲良町正楽寺、多賀町楢崎
築城年 : 応安元年(1368)
形  式 : 山城(標高308m)
遺  構 : 石垣、竪堀、土塁、
訪城日 : 平成22年10月11日  

歴   史
高筑(たかつき)豊後守が佐々木(京極)道誉(高氏)(1306~1373)の所領と館を守護するため、応安元年(1368)に築城したとされているが、高筑氏が実在したか不明であり真偽のほどは定かでない。
「嶋記録」には、天文4年(1535)に多賀豊後守について「豊州城、古ハ ヤツオ 又 セウラクジ ナドにもありしよし申伝候」とあり、多賀豊後守家の城であったことを伝えている。多賀豊後守家は、犬上郡下之郷(甲良町)を本拠としていたとも云われる。
永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城し、麓の勝楽寺と共に炎上したとされ、当時勝楽寺城が六角氏の支配下であったことが窺える。正楽寺の東隣には六角氏家臣の名字である楢崎(多賀町)があり、楢崎氏がこの地に居住していたとされ、同氏が勝楽寺城を使用した可能性も想定されている。
なお、勝楽寺は、暦応4年(1341)に道誉が建立した寺で、道誉晩年の居館でもあった。道誉は、自由奔放な思想の持ち主で、いわゆる「婆娑羅」の典型として知られている。

構造と感想
勝楽寺城は、尾根筋を削平した単純な連郭式縄張りで、中央の50m程の細い鞍部を境に東西に分かれている。
東側は「見張り台」と呼ばれる二段の郭と北側に下った所にある細長い削平地からなっている。上段の見張り台の周囲には石垣が廻っており、南側には土塁が築かれている。ここからは湖東平野への眺望がよく利いている。
西側は、中央の鞍部に接した東西に細長い削平地とその西側上方に続く二つの郭からなっている。さらに南には「上臈落とし」と呼ばれるピークとその南のピークへと続いている。南のピークの先は尾根が急激に落ち込み、ここまでが城域と考えられているが、二つのピークは自然地形で削平はされていない。
尾根の両斜面は急峻で、要所にある自然の掘り込み地形(竪堀および畝状竪堀状の地形)を最大限に活かし、立地に依拠した古式な構造との評価と石垣を用いて戦国期に改修された遺構との評価が出来、大きく見解が分かれる城郭遺構とされている。

道 案 内            
佐々木道譽公墓
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を東の多賀方面に道なりに8.3km程行った国道307号の金屋北交差点で左折する。県道227号線に入り、東に道なりに720m程行った名神のガード手前で右折し、側道に入る。側道を南に430m程進みシンコール物流滋賀センターの手前で左折し、名神のガードをくぐり直ぐを斜め右方向に進み、610m程行った先が勝楽寺である。勝楽寺境内の右手に登山道があり20分程登ると城跡に至る。
               

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