No25443-13 楢崎城 (ならさきじょう)       

総門(佐和山城より移築?) 寺の石垣

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 多賀町楢崎
築城年 : 不詳
形  式 : 平城(居館)
遺  構 : -
訪城日 : 平成22年10月11日 

歴   史
楢崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。

構造と感想 寺の背後尾根と前面の段築
発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。

道 案 内            
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を東の多賀方面に道なりに8.3km程行った国道307号の金屋北交差点で左折する。県道227号線に入り、東に道なりに1.5km程行った道が左に大きくカーブする手前で右折する。道なりに南に270m程行った先の山裾にある高源寺付近が城跡である。

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