多賀豊後守家の居城とされる。多賀氏は、鎌倉初期から多賀社の神官として、また幕府の御家人として多賀と甲良に勢力を張り、特に北条氏と結びついて所領を得宗領としつつ、佐々木氏等と対立していた有力な国人領主であった。南北朝時代には京極氏に仕え、若宮氏とともに京極氏屈指の有力被官であった。
観応元年(1350)6月の佐々木(京極)道譽が高師直(こうのもろなお)に宛てた文書(多賀社文書)に「私が今こうして甲良に住まいをかまえていられるのも、ひとえに多賀社の神官である多賀・河瀬一族の忠勤の賜物である。」とあり、近江一国の守護となった道譽が坂田郡柏原から甲良の勝楽寺に館を移すについて、国人領主の多賀・河瀬両氏を懐柔したことが窺い知れる。
室町中期には犬上郡下之郷を本拠とする多賀氏と浅井郡中野を本拠とする多賀氏に分かれ、前者は豊後守、後者は出雲守を称した。応仁の乱では、東軍に属した主君・京極持清を支え奮戦した。しかし、主君・持清の死後の「京極騒乱」で、出雲守家の清直・宗直父子が西軍六角氏に付き、両多賀氏は相争ったが、文明13年(1481)に幕府の仲介で和睦した。しかし、京極高清が江北支配の実権を握り、高忠は近江に戻れなくなった。
高忠の曽孫・貞澄(貞隆)は、天文3年(1534)強大化する浅井亮政に対抗するため六角定頼に通じ、浅井亮政に攻められたが、敏満寺に流寓していた今井夜叉丸(定清)等の助けを受け持ち堪えている。
高忠の曽孫・貞澄の子の貞能のときに明智氏・豊臣氏と従ったが、貞能の養子の秀種(堀秀政の弟)は関ヶ原で西軍に与し改易された。 |