No25401−03 相谷万灯山城 あいだにまんとうやまじょう)       

先端部の削平地 南西端の竪堀

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 神崎郡永源寺町相谷字下村
築城年 : 南北朝期
形  式 : 山城(標高370.8m)
遺  構 : 土塁、竪堀
訪城日 : 平成22年12月11日

歴   史
相谷万灯山城の築城は、城の形状が古いとして南北朝期に京極道誉の軍事行動と一体化して築かれた可能性が高いとされるが確認は難しいようだ。後年には、山上城山田城の出城であったことも事実のようである。また、相谷の土豪小辰氏が残した「小辰家文書」によれば大永元年(1521)の江北合戦後に(現長浜市)安養寺城主の安養寺勝光の一族が相谷に移住し、小辰姓に改称して相谷万灯山城主となったとされている。また、永禄2年(1559)に織田信長が守山から八風峠を越え清州に戻ったとき、小辰勝徴が道案内をしたと記されている。これは信長公記の記述と一致している。

構造と感想
相谷万灯山城は、八風街道沿いの相谷集落南の万灯山山頂に築かれている。相谷集落を過ぎると山深くなるが、万灯山はその山間部の入口に位置している。
城への登り道が分からず西側の南後方から登ったが、北側山裾を走る道路が国道421号に出る所の山側に「火の用心」の看板が建っている所から山道がある。頂上手前は、テレビの共同受信施設の管理道で急階段が続いているようである。
城の規模は、南北約80m、東西約20mで北と南に城域を区分出来る。北側中央に土壇があり東から北に幅の広い腰郭が取り巻いている。その南側は東縁部に土塁を伴う削平地が設けられた簡単な縄張りである。しかし、南の尾根は細く削り出し、複数の竪堀も入れて守りを固めている。また、四方は急峻な斜面となって到底攻め上ることは出来ない。

道 案 内
登り口、火の用心の看板あり
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との御園交差点を直進、更に国道421号を5.3km程東進すると山上小学校前交差点に至る。その交差点も直進し紅葉の名所・永源寺も越えて2km程行くと右手にポツンと建つログハウスが見えてくる。その先100m程で山側に右折する。右折した所の山裾に登り口がある。
            

(登り口)   (城跡) TOPへ 戻る