No25365−07 和田城 (わだじょう)       

現地縄張り図 和田谷城郭の群配置図

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 甲賀町和田字柞ヶ谷
築城年 : 応仁年間(1467〜69)
形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、横堀、堀切、虎口、櫓台
訪城日 : 平成23年5月14日

歴   史
和田城は甲賀郡中惣の有力な構成員であった和田氏の居城され、「甲賀郡志」には応仁年間(1467〜69)に和田左京太夫が砦を築いたと記されている。
和田氏の先祖は、応和年間(961〜994)に和田を領有した源満政と云われ、足利義満の頃に和田に移住したと伝えられている。近江国守護佐々木氏の重臣で五反田や毛枚を領有する土豪であった。その18代が和田惟政(1530〜71)で永禄8年(1565)5月第13代室町将軍足利義輝が松永久秀、三好三人衆らの襲撃に遭い二条御所で落命し、その際、末弟で興福寺一乗院門跡であった覚慶も幽閉されたが、同年7月細川藤孝、三淵藤英、和田惟政らの手引きにより大和を脱出し、一時は甲賀の和田氏屋敷「和田いづみ館」に匿われた。
後に覚慶は還俗して足利義昭(当初は義秋)と名乗り、惟政はこの際の貢献により義昭の近衆となり、その後の義昭の流寓に従った。義昭が信長の尽力で入京を果たした永禄11年(1568)信長からその忠節を認められて、摂津半国を与えられ芥川城主となり、続いて高槻城主も兼ねた。また、惟政はキリスト教の理解者としてイエズス会を保護し、フランシスコ・ザビエルを信長に謁見させた武将としても知られる。
しかし、信長配下の摂津国衆の内部分裂が起こり、惟政は池田の荒木村重や茨木の中川清秀らと対立し、元亀2年(1571)摂津国白井河原で戦い敗死してしまった。跡を継いだ子の惟長も元亀4年(1573)家臣であった高山右近父子に追放され、流浪の末に徳川氏に仕え旧領の和田を領した。

主郭内西方向
           南辺土塁の段郭

構造と感想
甲賀は戦国期城館が密に分布する地域とされるが、それは戦国時代の甲賀郡が同名中惣(同じ姓氏や同族を許された者達の連合体)を中心に甲賀郡中惣(同名中惣の連合体)を組織した結果、在地土豪が淘汰されず、それぞれが村々に居城を構えた結果と云われている。特に、分布密度の高い地域は、谷筋で集落背後の丘陵上に連旦するように惣領家と庶子家がそれぞれに城館を構えた地域である。
和田谷も中央を流れる和田川に沿って右岸側に北から殿山城公方屋敷、和田城、左岸側に公方屋敷支城和田支城VUTが連旦しており、その一つ一つが郭として機能し、それらが集合体として、一つの城を構成したと考えられている。その中で和田城は、和田谷の一番奥に位置し、規模も大きく、縄張りも複雑であることから、主郭的存在であったと考えられている。
和田城の縄張りは、和田川に向け北西に突出した丘陵先端部に築かれ、丘陵頂部に一辺約50m四方の土塁に囲繞された主郭を置き、西辺土塁の南端に開口部があり、城道は開口の前面に構えられた虎口受けを通り、西側の腰郭へと下っていく。その先は、腰郭の東辺南隅から城の北側谷部へ下り、山麓に至ると想定されている。城道が谷部へ下りはじめる脇には、井戸跡の窪地が残っている。主郭北東側の中腹には、帯郭も付随している。
主郭の南背後は堀切で切断されているが、堀切の外側に続く頂部も削平され郭状を呈しており、それが城域か、後世の畑地なのか不明とされる。主郭の土塁は、北辺と西辺が一定幅の土塁であるが、南辺土塁は台形状で上面が二段築成され、高さ約7m、巾約20mと巨大である。東辺土塁も三角形状で上面は幅広でこれも二段築成になっている。
このように主郭の土塁形状が特異であるが、主郭を方形に掘削し、外周に残った地山で土塁を構築したと思われ、腰郭を設けた西辺と北辺は整った土塁になったが、東辺と南辺の土塁は地山の形状を残したまま土塁を構築したため、三角形や台形の形状になったと推測できる。

道 案 内
新名神高速道を甲南インターで下りて最初の交差点の甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。新治口交差点で右折して、新名神沿いを東に2.4km行くとT字路に突き当たる。T字路を左折し北東方向に360m程進むと野尻交差点である。野尻交差点で右折して、県道4号線に入り道なりに5.5km程JR草津線沿いに進むと油日農協前交差点に至り、右折して50m先のJR草津線を渡る。渡って直ぐのY字路で左手の油日小学校沿いの県道51号線に入り、南に530m程行くと和田集落入口で左手に「和田老人憩いの家」がある。さらに集落内を720m程南進して和田川を渡る手前の薮内橋バス停で左手に入り、道なりに300m程南東に行った右手に案内板が設置さている。そこから畦道を南西に山裾に向かうと説明板があり、そこから数分も登ると城跡である。
この城に和田谷全体の城郭分布図が設置されているので、まず和田城を訪れるのがよい。

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