No25365−01 No25365−02
殿山城 公方屋敷
(とのやまじょう) (くぼうやしき)

殿山城の主郭背後の堀切 公方屋敷の南方上方より

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 : 和田氏館、和田いづみ館
所在地 : 甲賀町和田字門田・武蔵 所在地 : 甲賀町和田字門田
築城年 : 築城年 :
形  式 : 丘城 形  式 : 居館
遺  構 : 土塁、堀切、 遺  構 : 土塁、堀切、井戸跡、庭園跡
訪城日 : 平成23年5月14日 訪城日 : 平成23年5月14日

歴   史
・・・・殿山城・・・・の城歴などは、詳細不明である。
・・・・公方屋敷・・・・は、永禄8年(1565)5月第13代将軍足利義輝が松永久秀、三好三人衆らの襲撃に遭い二条御所で落命し、その際、次男で鹿苑院院主であった周ロも誘殺された。また、末弟で興福寺一乗院門跡であった覚慶も幽閉されたが、7月細川藤孝、三淵藤英、和田惟政らの手引きにより大和を脱出し、一時は甲賀の和田氏屋敷「和田いづみ館」に身を寄せた。このことに因み地元では「公方屋敷」と呼び伝えているのが公方屋敷跡である。
その後、覚慶は観音寺城の六角承禎を頼り、承禎は矢島に覚慶の居所を建築、同年11月21日覚慶は矢島に移った。永禄9年2月覚慶は矢島で還俗し、名を足利義秋(後の義昭)と改めた。矢島の義秋居館は矢島御所と呼ばれ、土豪の矢嶋越中守が警護したとされる。
この間、義昭は幕府再興への支援を有力な戦国大名に要請するなど上洛の機会を窺っていたが、突然三好長逸が乱を起こし、矢島御所にも攻め寄せてきた。また、矢島御所のある南近江の領主である六角義治が三好三人衆と内通したという情報に触れ、同年8月義秋は矢島御所を去り、妹婿である武田義統を頼り若狭へと下った。9月には越前の朝倉義景のもとへ移ったが、上洛をする意思を表さなかったため、明智光秀の仲介により織田信長を頼って美濃へと移った。永禄11年(1568)9月織田信長に警護されて上洛を果たし、10月18日朝廷より将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

構造と感想
・・・・殿山城・・・・は、甲賀町南部の中央付近に位置する和田谷の北入口の東側丘陵上に築かれている。現在、忠魂碑が建てられ展望台となっている通称「殿山」の山頂から北西に伸びる尾根の先端部を城域としている。遺構は、東側の尾根続きを高低差の大きい鋭い堀切で遮断し、尾根先端方向にハの字状に土塁を残し、その内側を30m四方の郭に削り出した小規模な城郭である。この城は杣川の谷筋を見通すことができる立地と小さな規模から監視所的な城郭であったと考えられている。
小規模な城ではあるが、背後の堀切はそれに似つかわしくないほど見事な遺構である。
・・・・公方屋敷・・・・は、甲賀町和田にあり、和田谷の北入口部にあたる通称「殿山」の南西側谷部に位置している。北・東・南側の三方を丘陵が取り巻き、西側のみ和田谷に向かって開口する一段高い平坦地である。東西75m、南北80mを測り、中央部に生垣があり「公方屋敷旧蹟」と刻まれた石碑と説明板が建てられている。現在は、単なる平坦地と畑地である。
一方、屋敷を取り巻く三方の丘陵上は、削平がなされ郭や土塁、堀切が確認され、谷間の防衛ラインを構成していたと思われる。
甲賀の有力土豪である和田氏の居館、そして足利将軍が滞在した屋敷に相応しい構えと云える。

道 案 内
新名神高速道を甲南インターで下りた最初の交差点である甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。新治口交差点で右折して、新名神沿いを東に2.4km行くとT字路に突き当たる。T字路を左折し北東方向に360m程進むと野尻交差点に至る。野尻交差点で右折して、県道4号線に入り道なりに5.5km程JR草津線沿いに進むと油日農協前交差点に至る。右折して50m先のJR草津線を渡り、直ぐのY字路で左手の油日小学校沿いの県道51号線に入る。南に530m程行くと左手に「和田老人憩いの家」があり、駐車させてもらう。
・・・・殿山城・・・・へは、そこから南東に徒歩で左カーブしながら130m程で行くと殿山山頂へ通じる石段下に至る。石段を登り最初に折れ曲る辺りの少し上方から右手の西方向に30m程水平移動すると殿山城跡である。
・・・・公方屋敷・・・・へは、公方屋敷の北・東・南側の三方を取り巻く丘陵上の遺構を北から南へと順に見学し、南側丘陵から谷部へと下りて公方屋敷跡を訪れるのが良い。殿山山頂から西70mに北尾根上の遺構、山頂から南西100mに東尾根上の遺構、東尾根の中央部で西に張出す支尾根に南尾根上の遺構が残る。殿山山頂から東尾根に山道が通じている。

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殿山城の東側土塁の内側 公方屋敷の背後南尾根の堀切