No25207−02 矢島御所 (やじまごしょ)       

児童公園と自治会館 由来を記す石碑

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 守山市矢島町
築城年 : 文明年間(1432〜54)、永禄8年(1565)
形  式 : 館城
遺  構 : 土塁、堀跡、
訪城日 : 平成23年1月29日

歴   史
永禄8〜9年(1565〜66)における足利義昭の居所であるが、その期間は僅か1年4ヶ月程であった。
永禄8年5月19日将軍足利義輝が松永久秀らに暗殺されると、義輝の弟覚慶も興福寺一乗院に幽閉されたが、義輝の側近であった細川藤孝、三淵藤英、和田惟政らに助けられ同年7月ここを脱出し、甲賀の和田氏館で足利将軍家の当主になる事を宣言した。さらに覚慶は観音寺城の六角承禎を頼り、承禎は矢島に覚慶の居所を建築、同年11月21日覚慶は矢島に移った。永禄9年2月覚慶は矢島で還俗し、名を足利義秋(後の義昭)と改めた。矢島の義秋居館は矢島御所と呼ばれ、土豪の矢嶋越中守が警護したとされる。
この間、義昭は幕府再興への支援を有力な戦国大名に要請するなど上洛の機会を窺っていたが、突然三好長逸が乱を起こし、矢島御所にも攻め寄せてきた。また、矢島御所のある南近江の領主である六角義治が三好三人衆と内通したという情報に触れ、同年8月義秋は矢島御所を去り、妹婿である武田義統を頼り若狭へと下った。9月には越前の朝倉義景のもとへ移ったが、上洛をする意思を表さなかったため、明智光秀の仲介により織田信長を頼って美濃へと移った。永禄11年(1568)9月織田信長に警護されて上洛を果たし、10月18日朝廷より将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。
江戸時代は、徳川幕政下分部家二万石の治める矢島分城となり、戸田・川田・新庄・今浜・小島・矢島の管理経営本部となる。

構造と感想
少林寺境内の土塁
矢島御所は、室町幕府最後の将軍15代足利義昭が、将軍になる前の短期間を過ごした館である。現在は自治会館や児童公園となっており、当時を偲ぶ術は何も残されていない。ただ、会館前に建てられた石碑の由来のみである。
なお、明治の地籍調査では、自治会館付近の周囲を土塁と堀が廻っていたとされ、また自治会館横の児童公園は水堀が残っていたと云われるが、現在は宅地化が進み土塁も堀も消失してしまている。また、地籍図には堀ノ内の小字名があり、堀ノ内には土豪矢島氏の城館があったと考えられている。

道 案 内
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号を北東方向に2.9km程で辻交差点に至り左折する。県道11号線(琵琶湖大橋取付道路)に入り北西方向に道なりに2.9km程行った吉身海添交差点で左方向に入る。北西方向に2.6km程行って石田町交差点で右折して、北東方向320m先のT字路を左折する。北西方向に1.2km程走ると県道26号線との交差点に至り右折する。県道26号線に入り北220m程先のT字路を右折して矢島集落の路地に入る。路地を道なりに190m程進むと矢島町自治会館に至る。ここが館跡である。

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