No25362-09 三雲城 (みくもじょう)       

中心郭の桝形虎口 主郭北東角の石垣と土塁上の石垣

城郭の概要                  
別  名 : 吉永城
所在地 : 甲西町吉永字城山(現:湖南市吉永字城山)
築城年 : 長享元年(1487)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、空堀、枡形、土橋、石垣、井戸
訪城日 : 平成24年1月8日

歴   史
三雲城は、近江国守護六角氏の旗頭である三雲氏の居城で、長享元年(1487)に三雲典膳が六角高頼の命により築城したと伝えられる。一説には、三雲新左衛門賢持が築いたとも云われる。
織田信長の近江侵攻に対して三雲氏は最後まで六角氏に従ったため、元亀元年(1570)に信長軍の佐久間信盛に攻められ三雲城は落城、天正年間(1573〜)には廃城になっていたが、天正13年(1585)豊臣秀吉家臣の中村一氏が水口岡山城を築城するにあたり、三雲城より石垣等の資材が運び出されたと云われている。
長亭元年(1487)の室町将軍足利義尚による六角征伐の際には、この三雲城に六角高頼が立て籠もり、甲賀武士をはじめ近在の在地土豪とともにゲリラ戦を展開し、観音寺城に復帰を果たしている。また、永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻により箕作城を落とされ、本城の観音寺城を攻められた六角義賢・義弼父子がこの城に逃れてきている。
なお、六角氏没落後、三雲成持が豊臣政権のもと織田信雄・蒲生氏郷に仕え、江戸幕府では一千石の旗本として生き残っている。

構造と感想
林道の城址碑のところより山中に入り、直ぐY字に道が分かれるが左に登る。左手に幾段もの石垣が見られるが近代治山事業による石垣である。さらに山道を登り続けると、高い切岸が見えてくる。見上げると斜面上部に大きな石を積み上げた石垣が見える。そちらに向かって登って行くと見所の桝形虎口である。桝形は大石を積み上げ90度に折れた石垣で囲まれており、その迫力に見とれてしまう。
桝形虎口を入ると広い郭となり、西面に大きな土塁が築かれ、その南西上方部は土塁上が石垣で築かれた小規模な段郭となっている。虎口の右手、桝形の西側には石積みの深い井戸も掘られている。この郭がこの城の中心的な郭と思われる。
南西側一段上が主郭とされるL字形をした郭で、北東角に石垣が積まれている。また、南西側にも石垣の痕跡が残っている。主郭の背後の南から南西への尾根続きは、堀切を隔てて、見張り台として機能したと思われる南西隅に低土塁の残る小郭がある。その先には、更に四条の堀切が入っているとのことである。
なお、桝形虎口の郭から大きく下がって北東へ続く尾根に土塁状の馬の背道が先端に向かっており、その南側に駐屯地と見られる緩斜面が広がる。馬の背道を先端まで行くと「八丈岩」と呼ばれる磐座があり、それは麓からも望める巨岩である。
現地説明板の想像図

道 案 内
名神高速道栗東インターで下り、取付道路の900m程先で国道1号に出て水口方面に向かう。道なりに10.7km程行った左手にコンビニや東代公園がある吉永交差点を右折する。280m程先でJR草津線を越え、その80m程先で右折し、西に150m程行くと隧道があり、隧道を出て60m程先で左折する。三雲城・青少年自然道場の標識に従い住宅地内をクランク状に通り抜けて、その先380m程進むと青少年自然道場の入口に到達する。そこで右折し林道に入り630m程上り道路脇に駐車し、右手の山中へと登って行けば城跡に至る。 

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中心郭の西面土塁        中心郭の井戸
 
八丈岩からの遠望         主郭の南虎口