No25361ー01 石部城 (いしべじょう)       

善隆寺の石碑 北側の切岸

城郭の概要                  
 南西より
別  名 :
所在地 : 石部町石部字殿代(現:湖南市石部中央二丁目)
築城年 : 文明年間
形  式 : 丘城
遺  構 : 空堀、石垣、土塁痕、切岸
訪城日 : 平成25年8月4日         

歴   史
石部城は、文明年間(1469〜87)に三雲氏が築き、享禄年間(1528〜32)には石部右馬允家長が居城とし、近江守護の佐々木六角氏に仕えた。
六角高頼・義賢等は、たびたび難を逃れて石部城に入り、恢復を図っている。長享元年(1487)9月の室町将軍足利義尚の親征(鈎の陣)では、六角高頼は三雲丹後守の居館であった石部城に立て籠もり、夜襲などのゲリラ戦を展開し、観音寺城に復帰を果たしている。
永禄11年(1568)9月に足利義昭を奉じて上洛を目指す織田信長の近江侵攻により箕作城が落ちると、観音寺城の六角承禎・義弼父子は城を落ち延び、甲賀の入口にあたる石部城に入り、さらに伊賀の音羽郷に遁走して再興を期した。
元亀元年(1570)4月織田信長の朝倉征伐に対する浅井長政の離反を受け、同年6月三雲、高野瀬氏らを将として甲賀武士を糾合し、信長軍の佐久間信盛らと野洲河原で合戦するなど、甲賀郡内にあって反抗の拠点としたのが石部城であった。
しかし、野洲河原の合戦に敗れ六角承禎は石部城に籠城、天正元年(1573)9月佐久間信盛に石部城や菩提寺城を攻められるが、石部城には伊賀の河合山内また稲塚某なども入城して籠城、容易に落ちなかった。しかし、周囲に監視の砦が築かれ、甲賀武士の中にも信長につくものが現れ、天正2年(1574)4月13日六角父子は遂に城を脱出、石部城は落城し、廃城になったとされる。
その後、貞享元年(1684)に石部氏の菩提寺である善隆寺が城跡に移され、現在に至っている。
なお、石部氏は、甲賀五十三家である青木氏の一族で、正式官名は青木氏を名乗っていた。

構造と感想
石部城は、石部集落の南西に迫る丘陵の先端部に築かれている。
江戸時代の初め頃に城跡に石部氏の菩提寺である善隆寺が移されて現在に至っている。境内地と東側の墓地が城域と思われるが、北側と西側の急な法面に城の面影が残る程度で、その他に遺構らしきものは見当たらない。
しかし、境内地の東方が埋め立てられて石部小学校まで通じる平坦地になっているが、昭和30年代まではV字状に深くきれこみ、その低地に細い道と水路が南北に走っており、南東側が丘陵から遮断され、その他の三方はいずれも急傾斜の崖状を呈し、堅固な構造の城砦であったとされる。

道 案 内
国道1号の石部口交差点を南方向に曲り県道113号線に入る。県道113号線を950m程南進した左手が善隆寺で城跡である。

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