No25201−15 青山城 (あほやまじょう)       

頂部の削平地 石列

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 大津市坂本町字比叡山
築城年 : 元亀元年(1570)
形  式 : 山城(標高394.7m)
遺  構 : 削平地
訪城日 : 平成26年5月25日

歴   史
元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は敗戦したものの、決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。同月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。
摂津で三好三人衆と戦っていた信長は、この報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、信長は宇佐山城に入った。
一方の浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した(『信長公記』)。以後、青山城(「あほ山」)を中心に浅井・朝倉連合軍が京へ侵入し、洛外の各所を放火している(『言継卿記』)。
青山城は、織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦った際の連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つと考えられている。

構造と感想
『信長公記』に「はちが峯」、「あほ山」、「つぼ笠山」に陣取りとあり、『言継卿記』に青山城(「あほ山」)を中心に浅井・朝倉連合軍が京へ侵入とあり、地誌などの検討から壺笠山城の北100mのピークを「あほ山」と推定されているが、山頂部こそ人の手が加えられたような感じであるが、切岸などもなくほとんど自然地形であり、城郭遺構のようには見えなかった。また、浅井・朝倉連合軍の兵力は3万とも云われており、この大軍の中心が駐屯できる地形には全く思われない。

道 案 内
西大津バイパス南滋賀ランプを下りて東に510m程行った県道47号線の高砂東交差点を左折し、北に2.2km程行った(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路で左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。
林道が奥まで続いているが少し行くとチェーンが張ってあり、車両は通行止になっているので、駐車場から徒歩で四ツ谷川沿いの林道を1.3km程行き四ツ谷川を渡る。川を渡ってさらに250m程行くと左手に戻るように上りの林道が分岐している。この分岐した林道を110m程登ると峠で左手の尾根筋を5分も登れば城跡である。
なお、峠から20m程先の右手山裾にある登り口(目印のテープ等がある。)が壺笠山城へ通じている。目印のある所から山道に入り、南西に170m程登ると尾根に出る。左手東方向に尾根筋を100m程辿れば壺笠山城跡に至る。(なお、右手西方向に尾根筋を200m程登れば白鳥山(城跡)である。)

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