No25201−10 山中城 (やまなかじょう)       

中央郭の東方向、土塁 東端の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 大津市山中町
築城年 :
形  式 : 山城(標高377.0m)
遺  構 : 土塁、堀切、土橋、竪堀、
訪城日 : 平成24年3月17日

歴   史
山中城は、京都と大津を結ぶ重要なルートの一つである山中越の中間に位置する志賀郡山中村を領した磯谷氏の居城と伝えられているが、詳細は不明である。
この磯谷氏のなかで久次新右衛門尉と彦四郎父子に関する記録が比較的よく残っているようである。久次の二人の娘は、織田信長の目附に就く道家尾張守と、禁裏御倉職を務める立入城主立入宗継へ嫁している。久次は、その関係から身分は幕臣ながら禁中・公家との繁がりも強かったようで、永禄7年(1564)10月尾張清州へ、さらに同10年(1567)11月岐阜城へ、正親町天皇の勅使として宗継とともに下向し、信長と対面する重責をはたしている。
元亀元年(1570)9月23日信長は、久次に湖西を南下し比叡山に陣を張る浅井・朝倉軍の進路を阻むため、山中越の京都・山中間の封鎖を命じている。また、同2年11月15日久次の息子千代寿が元服して彦四郎と称するが、鳥帽子親は明智光秀の与力山岡景佐(瀬田城主山岡景隆の弟)で命名者は光秀とされ、当初、久次は信長に従っていたことが窺える。
しかし、元亀4年(1574)2月信長との不和が決定的となった将軍足利義昭の檄により、石山・堅田両城で反信長の挙兵がなされた。信長から離反した久次は、堅田城に立て籠もったが、同月29日光秀らに攻められて敗退。同年7月義昭が再び挙兵し、久次も京都の一乗寺に籠り信長軍と交戦するが再び敗れ、紀伊山中へ逃亡中吉野で土民に殺され、首級は信長のもとに持参された。
久次の息子彦四郎は、信長没後の天正11年(1583)6月羽柴秀吉から山中の旧領を返され、7月には山中越普請の奉行に任じられている。

構造と感想 上段塹壕の虎口
山中町には、節(武士)ヶ谷、陣ヶ谷、陣見山、奥ノ城、口ノ城と云った地名があったようで、奥ノ城は山中越沿いの比叡平の京都側辺りとされ、まさに山中城跡はそこに位置している。
城跡の遺構は、不明瞭で薄いものが僅かに残る程度で、縄張りを推定するまでには至っていないのでないだろうか。山頂部は十分な削平でなく不明瞭である。その山頂部から南に緩やかに下る尾根筋に二ヶ所の三日月状土塁が築かれトーチカ状の郭を形成している。喰い違い状の虎口を伴っている。東に伸びる支尾根には浅く薄い堀切が入っている。下段のトートカ状の郭から南西へ鞍部を経て小ピーク、その南側に土橋を伴う堀切が微かに残る。
位置も不確かで、遺構も微かな痕跡程度で探すのに苦労した訪城であった。

道 案 内
西大津バイパス南滋賀ランプを下りて東に510m程行った県道47号線の高砂東交差点を右折し、南に930m程走り神宮前交差点で右折する。県道30号線に入り道なりに山中越の山道を登り切ると頂上付近の右手に比叡山ドライブウェイの入口ゲートがあるが、通り過ぎ県道を下って行く。下り始めから1.6km程の山中上バス停過ぎの分岐で左手の旧道に入る。350m程先の左手上方に山中自治会館があり、会館への急な坂道を上り奥の駐車場に駐車する。
入口坂道の左側途中にあるコンクリート擁壁沿いの小道を奥に入り、左手山裾の小屋付近から背後の支尾根を東南東に登ると主尾根に出る。主尾根を南に350m程辿っていくと城跡とされるが、最初に訪れた時に城跡の位置とされる381mのピークまで行ったと思うのだが城郭遺構は存在しなかった。

上記の位置は、滋賀県中世城郭分布調査の地形図に示された位置であるが、城郭遺構は存在しなかったので、再訪の時は、さらに南の次のピークで西に回り込むように進んでいったところ、遺構に到達できたように思う。

(調査の位置)  (再訪地) TOPへ 戻る