No25201−20 堅田陣屋 (かたたじんや)       

伊豆神社北側の堀跡 現地の町絵図

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 大津市本堅田1丁目
築城年 : 元禄11年(1698)
形  式 : 平城(陣屋)
遺  構 : 堀跡、石垣
訪城日 : 平成22年11月6日

歴   史
徳川氏の政権になると堅田は大津代官支配の幕府直轄領となったが、元禄11年(1698)徳川家綱、綱吉に仕えた大老・堀田正俊の三男若狭守正高が下野国佐野から近江滋賀、高島両郡1万石に移封され、堅田に陣屋を置いた。陣屋建設にあたり予定地の民家に80両を支払って移転させたとされる。初代の正高以降、正峯・正永・正実・正富・政敦と続き、正敦の代の文化3年(1806)に3千石加増され1万3千石となった。そして、文政9年(1826)10月政敦は下野国安蘇郡植野村へ陣屋替えを命じられた。このとき領地替となったのは、高島郡内の4千石分で滋賀郡内の領地は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。また、陣屋の施設もそのまま存続され、明治を迎えている。

<堅田の歴史>
堅田は、琵琶湖の狭隘部の西岸に位置し、湖上水運を掌握する格好の地であり、また、琵琶湖西岸を南北に走る西近江路を扼し、仰木峠から大原・八瀬を経て京都に通じる間道の分岐点でもあり、水陸交通の要衝の地であった。
この立地条件から、堅田は漁業や運漕が盛んで、11世紀後半には下鴨神社の御厨供御人として漁業権を中心に琵琶湖全域の支配権を獲得していた。15世紀になると関所の関務を担当し、通行船の検問や関料の徴収を行うようになり、運漕業へも進出し、朝廷や幕府権力が衰退すると次第に自立を強め殿原衆(地侍)を中心に全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」が自治を敷き自らの意思と実力で湖上を支配するようになり、「湖水之親郷」と呼ばれるようになっていった。
一方、この頃臨済宗が殿原衆の間に広まり祥瑞寺が創建され、同じ頃浄土真宗の本福寺も創建された。本願寺八世蓮如の時代、布教活動が全人衆全体に広がり「堅田門徒」と称せられるほどの勢力をこの地に築くことになった。
応仁2年(1468)3月、将軍足利義政の用材運搬船に堅田衆が海賊をかけたことに端を発し、幕府の命を受けた比叡山が堅田を攻め、全焼させる「堅田大責」が起こり、堅田全庄民が沖島に落ちのびた。この際、蓮如は御影を堅田から浜大津の道場に移し難を逃れたが、「堅田大責」は真宗門徒弾圧の一面もあった。
2年後の文明2年(1470)、本福寺法住は金品での解決も必要として、山門に三千貫文を支払い堅田への還住を許されが、この戦いで大敗を喫した殿原衆は権力を失墜させ、逆に全人衆は彼らと対等な発言力を獲得することになった。
元亀元年(1570)の志賀の陣において、堅田は浅井・朝倉軍に味方したため、織田信長軍に攻められ、11月25日になって猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が信長に内通し、信長が派遣した坂井政尚・安藤右衛門佐・桑原平兵衛らを城内に引き入れ、西近江の物流の遮断を図ろうとしたが、浅井・朝倉軍は翌26日に朝倉景鏡・前波景当に一向宗門徒らを加え堅田を攻め、前波景当が討死するなどしたが、堅田を陥落させた。
ところが、元亀3年(1572)信長は全人衆主導の自治に不満を抱く殿原衆と結んで全人衆と真宗寺院を攻撃してこれを屈服させ、堅田を支配下に置き、廻船業の継続を保証したが、豊臣時代になると大津城主であった浅野長吉が沿岸各地から船を集め大津百艘船を創設し、大津から出る荷物や旅人を乗せるのは大津百艘船に限るとする特権を与えたため、中世を通じて湖上水運の支配権を握って来た堅田の特権的地位は大きく低下した。

構造と感想
琵琶湖側の石垣
堅田陣屋は景勝地である浮御堂満月寺の北側一帯に築かれていた。南は伊豆神社の周囲に流れ込む水路、北は旧堅田港の水路、西が祥瑞寺の東端、東が琵琶湖に面した1.2haの敷地に構えられた。南側に表御門、北側に裏御門があり、裏門には制札が掲げられ、水路を挟み堅田の指導者の屋敷が軒を接して並び、この付近は「城屋敷」と呼ばれている。                

道 案 内
湖西道路真野ICを下りて国道477号を東に2km程走ると国道161号との琵琶湖大橋交差点に至る。そこを右折し国道161号を南の大津方面に1.6km程行った迎木口交差点で左折する。東に790m程進むと「湖族の郷資料館」前に至り、観光用駐車場がある。さらに110m程東に歩き左折して北に90m程行き橋を渡った右手に説明板がある。その北奥一帯が陣屋跡である。

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