垂井城  No21361−03 (たるいじょう)       

城址碑 垂井の泉と背後の専精寺

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 不破郡垂井町垂井1349
築城年 :
形  式 : 平城
遺  構 :
訪城日 : 平成26年5月5日

歴   史
垂井城の築城年代や築城者については定かでないが、慶長5年(1600)豊臣秀吉の馬廻りであった平塚為広が1万2千石で垂井に封じられ、垂井城を居城とした。為広は、徳川家康に対して挙兵しようとする石田三成を大谷吉継と共に佐和山城にて諫言したが聞き入れられず、これまでの交情により意を決し三成の西軍に与した。伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日は病気の吉継に代わり大谷隊を指揮した。小早川秀秋が西軍を裏切り大谷隊へ攻めかかると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返したが、力尽き山内一豊の家臣・樫井太兵衛に討たれたとされる。
敗軍の中で、辞世の歌「 名の為に捨つる命はおしからじ ついにとまらぬ浮き世と思えば」を大谷吉継に送っている。吉継は、この歌で戦局のすべてを悟り、頼りにしていた平塚へ「 契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 遅れ先だつことはありとも」と返し、自らも直後に自刃して関ヶ原の戦場に果てた。関ヶ原戦後に垂井城は廃城にされた。

構造と感想
垂井城は、北に垂井宿、相川を望む台地の端部に築かれている。垂井の泉の裏にある専精寺は、周囲より一段高くなっていることから、垂井城があったのではないかと推定されており、寺門の脇に石碑と説明版が建てられている。残念ながら遺構は何も残っていない。

道 案 内
国道21号の御所野交差点を北に入り、県道257号を350m程北上すると右カーブがあり、その左手に「垂井の泉」がある。この「垂井の泉」の背後の台地上に「専精寺」がある。この寺付近が城跡とされる。

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