高山城  No21203−01 (たかやまじょう)       

本丸の復元石垣 三ノ丸の堀

城郭の概要                  
別  名 : 天神山城、臥牛山城、白雲山城、冑山城
所在地 : 高山市城山神明町
築城年 : 永正年間(1504〜21))
形  式 : 平山城
遺  構 : 石垣、土塁、堀
訪城日 : 平成23年9月24日

歴   史
高山城の前身は、文安年間(1444〜48)に飛騨国守護京極氏の被官であった多賀出雲守徳言によって築かれた城館で、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれた。
永正年間(1504〜21)には守護代多賀氏の一族であった高山外記が山頂部に天神山城を築城し、その名からこの地を「高山」と呼ぶようになったと云われるが、多賀山城の名から「高山」と呼ぶようになったという説もあり、地名の起こりは明確でない。
永禄元年(1558)高山外記は、益田郡桜洞城主で同じく京極氏守護代の三木自綱と吉城郡広瀬郷高堂城の広瀬宗城に攻め滅ぼされ、天神山城には自綱の叔父・久綱が入った。自綱自身は、天正7年(1579)に天神山城西方の標高856m余の松倉山上に松倉城を築いて、桜洞城から移り住んでいる。この年に子の信綱を謀反の罪で松倉城に呼び寄せ誅殺し、天正10年(1582)高原郷、荒城郷などの北飛騨を領有し、高原諏訪城を本拠としていた江馬輝盛を荒城郷八日町の合戦で討滅ぼし、翌11年には弟の鍋山城主顕綱に刺客を送って殺害し、飛騨の大半を領有するに至った。
しかし、羽柴秀吉が越前の柴田勝家、越中の佐々成政と対立すると、自綱は成政と同盟して秀吉に抗したため、天正13年(1585)秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近により攻められ、高堂城の自綱は降伏し京都に逃れ、鍋山城の基綱は城を捨て兄秀綱のいる松倉城に合流し、兄弟で籠城したが落城、逃亡中に土民に襲われ自害して果て、三木氏は滅亡した。
天正14年(1586)長近は飛騨国3万3千石を与えられ、鍋山城を居城としたが、天正16年(1588)天神山城跡を本丸として築城し、この地を「高山」と改称した。本丸、二の丸が慶長5年(1600)までに、三の丸が二代可重により3年後に、また、築城と同時に着手された城下町の整備は三代重頼の時に完成したとされる。
この間の慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で長近は徳川方に属し、美濃国郡上八幡城攻めなどの功により美濃国上有知(こうずち)・関と河内国金田に2万3千石を加増され、翌年には高山城を養子可重に譲り、自らは上有知に隠居城の小倉山城を築き移った。
その後、元禄5年(1692)六代頼時の時、出羽国上山藩へ国替えになり、高山城は加賀藩主前田綱紀の預かりとなったが、元禄8年(1695)天領になったため、高山城は廃城となり、破却された。

構造と感想
高山城は、飛騨国中央に位置する標高570m前後の高山盆地の南東部に聳える標高686mの天神山山頂から北麓にかけて築かれた平山城である。
構造は、山頂に東西約80m、南北約50mの本丸を置き、本丸の北側に東北曲輪、南側に南之出丸、さらに北側に中段屋形、庭樹院館や二の丸屋形、土蔵が建つ二の丸、現在は護国神社の建つ三の丸が連郭式に配され、三の丸は水堀が三方を囲繞していた。
城道は、二の丸から本丸への入口が搦手で、大手は南側に設けられ、こちらにはあまり大きな曲輪は構えられていない。南側には白雲水と呼ばれる城用水がある。
本丸は手狭で石垣より張出す懸け造り建物を建て狭さを補っていたとされる。
なお、城は破却されているため、昔日の遺構は山麓の堀や所々に石垣が残っている程度で、本丸にある使者之間石垣は復元されたものである。

道 案 内
JR高山駅南側を南北に走る国道41号を北上して来て上岡本町南交差点で右折して国道158号に入る。国道158号を東に920m程行った日赤北交差点を直進し県道480号線に入り、さらに東に280m程行った陣屋南交差点で左折する。北に180m程行った陣屋前交差点で右折し、東に200m程行った突き当たりで左折する。北に回り込むように160m程進むと再び突き当たりとなり右折する。南に80m程行って左折し突き当たりが公園駐車場である。遊歩道が主郭まで付けられている。

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本丸の残存石垣        本丸西方向