高原諏訪城  No21625−02 (たかはらすわじょう)       

北端の二重堀切 主郭北西角の竪堀

城郭の概要                  
別  名 : 旭日城,江馬城
所在地 : 飛騨市神岡町殿
築城年 : 戦国期
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、竪堀、土塁、石垣、
訪城日 : 平成23年9月24日

歴   史
築城者や築城時期等は定かでないが、応仁の乱を避けて延徳元年(1489)に詩僧万里集九が高原城下に至って江馬氏に酒食のもてなしを受けたとの史料あり、また、享禄から天文年間(1528〜55)の人とされる江馬時経が、二越屋形にいて、諏訪城を改築したとされ、この諏訪城は下館のことであろうと云われ、いずれにしても応仁の乱の後には江馬氏の居城であったようである。
戦国期江馬氏は、上杉氏と武田氏の間で揺れ動き、時経の子の時盛が当主であった永禄7年(1564)には武田信玄が飯富昌景を高原郷に攻め入らせたため、時盛父子は武田氏に降っている。翌年、時盛は昌景の先導として越中に攻め入り、長子輝盛を中地山城に入れ城代としたが、輝盛は元々上杉氏寄りであったため、父子は不和となり、時盛が三男信盛や親武田派の分家麻生野直盛の子慶盛に跡を継がせようとしたため、輝盛は刺客を放ち父を殺害、慶盛を攻めて自害させ、弟信盛・貞盛を追放し、家督を継いだ。その後、上杉謙信が急死して後ろ盾を失う状況に陥り、天正10年(1582)三木氏の背後にあった織田信長が本能寺の変で倒れたのを機に、南下して三木自綱を討とうとしたが、吉城郡荒城川沿岸の八日町の戦いにおいて三木氏の将牛丸又太郎によって討ち取られ、江馬軍は総崩れとなり、本城である高原諏訪城も小島城主小島時光によって攻められ落城した。
その後、越前国に逃れていた江馬時政が天正13年(1585)飛騨に侵攻した金森長近軍に加わり姉小路氏(三木氏)を滅ぼすが、戦後の論功行賞で不満を抱き鍋山右近大夫、広瀬宗直とともに反乱を起こし、時政は鎮圧され自害して、江馬氏は完全に滅亡した。

構造と感想

高原諏訪城は、飛騨の北部を北流して日本海にそそぐ高原川流域の小盆地である高原郷の東側に北から南へ延びる山稜上に築かれている。城の西麓には、居館である下館や高原郷の諸集落を眺望することができる。
構造は、尾根が続く北を三重堀切で遮断し、外側の堀切から西斜面に長大な竪堀を落としている。三重堀切から主郭部北側の堀切までの約60mの尾根筋を削平し、東面に土塁を築いている。三重堀切を越え東斜面を横移動する敵を攻撃する施設であろう。主郭部西側の堀切も西斜面に長大な竪堀を落としている。
主郭は東西20〜24m、南北34mの方形で、南西下の一部を除き6〜10m幅の腰郭が取り巻いている。主郭部の北と北東の尾根に堀切とその内側にハの字に竪堀をセットで設けている。南端も同様なセットの防御施設を設けている。
主郭部の東側には深さ約12mの堀切を設け、その南側に東西10m、南北50mの二郭を構え、二郭南側に三段の腰郭とこれらの東側に約5m幅の帯郭を付帯させている。二郭部の南端は堀切とその内側にハの字の竪堀を穿ちセットの防御施設を設けて城域を区画している。
二郭の西側中央付近に石垣の痕跡が残っている。
構造は単純であるが、鋭い姿を今も留めている堀切や竪堀を満喫することができる。


道 案 内
国道41号を高山から北上して飛騨市神岡町の船津北交差点(神岡鉄道「かみおかこうざんまえ駅」の前)で右折し国道471号に入る。国道471号に入って直ぐ高原川を渡り 橋の東詰めで右折し、そのまま国道を道なりに1.8km程進むと道の駅「宙ドーム神岡」前に至る。道の駅を越えて100m程の江馬町交差点で左折し、150m程先の右手が下館跡で、そこから更に590m程道なりに進み左折する。山に上る道を1.7km程行くと峠で右手に「高原諏訪城登り口」の白い道標がある。奥に入る山道を5分も歩けば城跡である。路側帯に駐車可。

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主郭の城址碑        二郭西側の石垣