江馬氏下館  No21625−01 (えまししもやかた)       

復元堀、復元門 復元会所

城郭の概要                  
別  名 : 根小屋、江馬氏館
所在地 : 飛騨市神岡町殿573−1
築城年 : 戦国期
形  式 : 居館
遺  構 : 復元会所、復元庭園、復元土塀、復元堀、復元門、
訪城日 : 平成23年9月24日

歴   史
江馬氏下館は、江馬氏の本城である高原諏訪城の西麓に所在した居館で、築城者や築城時期等は不明とされる。また、江馬氏の出自についても定かでなく、伊豆国江馬庄を所領としていた鎌倉幕府執権北条氏か、その在地御家人であった伊豆の江馬氏のいずれかの一族が、鎌倉末期までに飛騨高原郷に所領を得て入部したものと推測されている。
江馬氏は、在地領主として勢力を拡大し、室町幕府とも直接結びつく有力国人へと成長し、戦国時代には江馬氏が飛騨国の北部を、飛騨国司姉小路氏が中央部を、三木(姉小路)氏が南部を支配していた。
江馬氏において史料に初めて現れる人名は、享禄から天文年間(1528〜55)の人とされる江馬時経で、二越屋形にいて、諏訪城を改築したとされ、この諏訪城が下館と云われている。
時経は女を三木(姉小路)良頼の室に嫁がせ、三木氏と同盟していたが、女の夭逝によって天文13年(1544)には江馬氏に対し三木氏が軍事行動を起こし、以後、両者は宿敵の関係となって行く。
飛騨国守護は長く京極氏が務めていたが、三木直頼(良頼の父)は自己勢力の拡大に専念し、京極氏から実権を奪い取り、そして、天文15年(1546)強敵となった時経が死去すると、跡を継いだ時盛と和解し、益田・大野両郡ばかりでなく、北は吉城郡、南は恵那郡にまで勢力を拡大して、天文23年(1554)死去、その跡は良頼が継いだ。
しかし、両家は近隣の甲斐国武田氏と越後国長尾氏の抗争に次第に巻き込まれるようになり、時盛は甲斐国武田氏に属し、上杉謙信と結ぶ三木氏に対抗し、弘治2年(1556)南進を図って姉小路氏を破り、さらに永禄4年(1561)にも武田氏に通じて兵を挙げたが、このときは講和となり良頼方の勝利に終わっている。以後、しばらく飛騨国は平穏な日々が続いたが、永禄6年(1563)上杉氏が飛騨吉城郡に侵攻して時盛はこれに降伏している。
しかし、永禄7年(1564)武田信玄は山県昌景に命じて飛騨高原郷に侵攻すると、再び時盛は武田氏に通じ、翌年には武田氏とともに越中へ侵攻し、越中国新川郡中地山城を信玄から預けられ、江馬氏の勢力は越中にまで及ぶようになった。
ところが、武田氏寄りの時盛に対して、嫡子輝盛は上杉氏に好意を寄せ父子は不和となり、時盛は三男信盛に家督を譲ろうとするが信盛は輝盛にはばかってそれを受けず、時盛は親武田派の分家、洞城主麻生野直盛の子慶盛を養子に後継にしようとしたが、天正元年(1573)武田信玄の病死を知った輝盛は、ついに父時盛を暗殺し、洞城を攻めて麻生野慶盛を自害させ、弟信盛・貞盛を追放して江馬氏の家督を継ぐこととなった。そして天正4年(1576)飛騨へ進出してきた上杉氏に三木氏ともども降伏した。
しかし、天正3年(1575)長篠合戦で武田氏は織田・徳川連合軍に大敗を喫して勢力を失墜、天正6年(1578)上杉謙信が急死し上杉氏は内戦状態に陥り勢力を大きく後退させた。この激変に対して、三木氏はいち早く織田信長に誼を通じて、所領の安泰を図っている。
天正10年(1582)信長が本能寺の変で斃れると、これを好機と見た輝盛は三木自綱を攻めるべく出陣したが、吉城郡荒城川沿岸の八日町の戦いにおいて三木氏の将牛丸又太郎によって討ち取られ、江馬軍は総崩れとなり、本城である高原諏訪城小島城主小島時光によって攻められ落城した。
その後、越前国に逃れていた輝盛の子時政が天正13年(1585)飛騨に侵攻した金森長近軍に加わり姉小路氏(三木氏)を滅ぼすが、戦後の論功行賞で不満を抱き鍋山右近大夫、広瀬宗直とともに反乱を起こし、時政は鎮圧され自害して、江馬氏は完全に滅亡した。

構造と感想
高原諏訪城より下館を望む

下館は、ほ場整備工事に先立ち昭和49〜53年度にかけて発掘調査が行われ、昭和55年中世地方武士の館・山城が群として機能し地域を治めた貴重な遺跡であるとして、下館とその周辺の山城である高原諏訪城・土城・寺林城・政元城・洞城・石神城・政元城が「江馬氏城館跡」として国史跡に指定されている。発掘の結果、下館は14世紀末から16世紀初めまで機能し、16世紀中頃から末の間に他所に移動したことが判明した。
平成6年度から復元整備のための発掘調査が行われ、平成14年度から復元整備工事に着手され、この程ようやく完成した。
方一町の規模を持ち、庭園、会所、主門、土塀と薬研堀の一部が発掘調査に基づき忠実に復元され、さらに当主が居住する常御殿、家族が住む対屋、そして家来が控える台所が板床で復元され、建物の平面的な広がりと位置関係が体感でき、戦国期地方武士の居館の雰囲気を充分に味わえる遺跡になっている。
それにしても4千石程度の地方武士が、これ程に豪華な居館を構えられたことに驚きを禁じ得ない。
なお、近くの圓城寺は江馬氏の菩提寺で江馬輝経の墓がある。


道 案 内

国道41号を高山から北上して飛騨市神岡町の船津北交差点(神岡鉄道「かみおかこうざんまえ駅」の前)で右折し国道471号に入る。国道471号に入って直ぐ高原川を渡り 橋の東詰めで右折し、そのまま国道を道なりに1.8km程進むと道の駅「宙ドーム神岡」前に至る。道の駅を越えて100m程の江馬町交差点で左折し、90m先で右折する。その150m程先の右手が館跡である。(円城寺の手前:円城寺には江馬輝盛の墓があるそうだ。)


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  復元説明図        復元庭園と背後高原諏訪城