加納城  No21201−02 (かのうじょう)       

南面の石垣と濠跡 二の丸東北隅櫓の石垣と濠跡

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 岐阜市加納丸之内8−8
築城年 : 文安2年(1445)、慶長6年(1601)
形  式 : 平城
遺  構 : 石垣、土塁、堀、
訪城日 : 平成21年8月29日

歴   史
加納城は、美濃守護代の斎藤利永が守護所の革手城を防備するため、文安2年(1445)に革手城の北方300mに築城したのがはじまりとされ、革手城の西側には利永の臣で小守護代石丸氏の船田城もあり、多核・並立的な守護大名城下町を形成していたとされる。
しかし、永正7年(1510)頃には守護所は長良川北岸の福光城に移っており、この頃に加納城も廃城になったと考えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦後に徳川家康は、本多忠勝に岐阜城を廃し、その天守、櫓、石垣等を移築転用して加納城を築くよう命じ、翌慶長6年には城主として奥平信昌を上野国小幡3万石から加納10万石に封じた。寛永9年(1632)三代忠隆が嫡子なく没し奥平氏は断絶となり、続いて武蔵国騎西城から信昌の孫である大久保忠興が5万石で入封、城地の修築を行っている。寛永16年(1639)忠興が播磨国明石城7万石に転封となると、代わって播磨国明石城から戸田光重が7万石で入封し、光永・光熈と三代に亘り在城した。宝永8年(1711)光熈が山城国淀城へ移ると、安藤信友が備中松山城から6万5千石で入封、信友の母は光重の女である。宝暦6年(1756)安藤信成の時、陸奥国磐城平城に転封なり、武蔵国岩槻城より永井直陳が3万2千石で入封し、以後永井氏が6代続いて明治維新を迎えた。明治5、6年に城内の建物を取り壊し破却された。
昭和58年に本丸石垣内が国指定史跡に指定された。

構造と感想
加納城は、JR岐阜駅の南約1kmの所で中世加納城の跡地に築かれた平城である。中世加納城の痕跡は地表面に残されていないが、発掘調査やレーダー探査により一辺150mの方形城館で巾約10m・高さ2m以上の土塁と巾約20mの堀に囲繞された大規模な城館の姿が捉えられている。
近世加納城は、東と南の荒田川、北の清水川を防御線とし、西には長刀堀を穿ち、四方を川と堀で囲んだ「水に浮かぶ城」であった。岐阜城から天守、櫓、石垣等を移して中世加納城跡に本丸を置き、それぞれ水堀で区画された二の丸、厩曲輪、三の丸、馬出しを屈曲しながら城道が通り抜け、馬出しを出た大手道両側には上級武家屋敷地が広がり、その中央北端に中山道に面した大手門が構えられていた。搦め手の本丸南側には水堀が取り巻く大薮曲輪が配されていた。
加納城は、関ヶ原戦後初の本格的城郭で、本丸は東に出っ張りを持つ凸字形をし、この出っ張りは出枡形(外枡形)と呼ばれる防御施設で、この形は初期の徳川系城郭に見られる特徴で、加納城が初現にあたることから「加納城型」とも呼ばれている。本丸の北西隅には、天守台が築かれているが天守は建てられず、二の丸の東北隅に岐阜城天守を移築した御三階櫓が建てられ、天守の役割を担っていた。また、藩主の御殿も二の丸に設けられ、二の丸が実質上の本丸であった。これは本丸を将軍上洛の宿館にあてるためと考えられている。現に宿館として造営された近江水口城と同じ形態である。
現在に残る遺構は、本丸の石垣と土塁、その周囲の堀跡、二之丸北側の石垣などわずかに残るのみであるが、市街化が著しい岐阜駅の近くでありながら、よく残されたと感心させられた。

道 案 内
大垣から岐阜方面へ国道21号岐大バイパスを来ると、茜部本郷交差点で左折し国道157号線に入る。国道157号線を北に1.2km程行った加納城南通2東交差点で右折して県道1号線に入り、東に300m程行った病院のある十字路で左折する。北60m程先に「加納城址公園」があり城跡である。公園の南側に駐車場がある。

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縄張り図 

縄張り鳥瞰図


本丸北面の石垣
(手前堀跡の発掘で堀障子が出土した。)