前山城  No20217-03 (まえやまじょう)       

主郭の南西方向 米倉郭と主郭切岸

城郭の概要                  
別  名 : 伴野城
所在地 : 佐久市小宮山 佐久市前山字城山
築城年 : 文明年間(1469〜87)頃
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、見張り台、虎口、
訪城日 : 平成27年4月18日

歴   史

鎌倉時代初期に伴野庄の地頭となった小笠原時長が伴野氏を称し、伴野館(野沢城)を本拠としていた。文明年間(1469〜87)頃、伴野光利は隣接する大井城主大井氏との抗争の中で、伴野館の西方2.5kmの要害地に詰めの城として前山城を築き、文明16年(1464)には本拠をこの前山城へと移していた。
天文9年(1540)武田信虎の命を受けた板垣駿河守が佐久に侵攻し、医王寺城(臼田城)・入沢城を始めととする数十城を破り、前山城に在陣、以後、伴野氏は武田氏に属した。
天文17年(1548)上田原合戦で武田軍が村上義清に敗れると、伴野左衛門(信守の弟・信豊)は武田氏に叛き村上氏に従ったが、天文18年(1549)再び武田氏に降った。
天正10年(1582)武田氏が滅亡し、伴野氏は北条方に属したが、徳川方の芦田信蕃(後の依田信蕃)に攻められ前山城は兵火に焼かれ落城、伴野信守は討死にし、伴野氏は滅亡した。城跡からは今も焼き米その他の遺物が出土するという。


構造と感想

前山城は、蓼科山から北東に伸びた一支脈の先端ピークに築かれている。北東端のピークに主郭が置かれ、豊受大神宮が鎮座し、北隅が一段高く見張り台で東屋が建っている。南西一段下には北西面に土塁の付帯する腰郭があり、大堀切となっている。主郭部の北東から南東側斜面には林檎畑にされた何段もの段郭や帯郭が麓近くまで連なり、裾には水路が廻っている。大堀切を隔てて南西隅に土壇の付帯する細長い二の郭が続き、この南東斜面にも段郭が三段程設けられている。二の郭の南西側は小堀切に、50m程の馬の背が続き、二重の大堀切で尾根続きを遮断し城域を区画している。馬の背の南東斜面にも段郭あり、墓地となっている。北西側は急斜面で裾に流れる中沢川へと落ち込んている。
見張り台からは佐久平を一望のもとに俯瞰でき、北佐久に勢力を張った大井氏を見張るに絶好の位置であることが実感できる。
なお、東約2km程に当初に本拠としていた伴野館がある。


道 案 内
中部横断道の佐久南インターを降りた佐久南IC入口交差点を直進し、190m程先で左折し県道145号線に入る。南東へ1km程行くと中沢川を渡る。320m程先の前山バス停の所で右折し、集落内を330m程南西へ進むと右手に伴野神社があり、この90m手前の右手路地の突き当りが登城口である。神社の30m先の前山寺横に道路駐車。

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登り口               見張り台


    見張り台と北東斜面の段郭      佐久平への眺望と北東斜面の段郭群


主郭部と二の郭間の堀切            二の郭南西西方向


南西端の堀切              南西端堀切の竪堀


  南西端堀切の土塁            二の郭の南東斜面下の化粧水