躑躅ヶ崎館  No19201−02 (つつじがさきやかた)       

大手虎口の角馬出し 西曲輪北虎口の土橋と内桝形

城郭の概要                  
別  名 : 武田氏館
所在地 : 甲府市古府中町
築城年 : 永正16年(1519)
形  式 : 平城(館)
遺  構 : 土塁、空堀、土橋、虎口、天守台、石垣
訪城日 : 平成22年11月21日

歴   史
永正16年(1519)に武田信虎が石和の川田館から躑躅ヶ崎の館へと府中を移し、併せて家臣団を館周辺に強制移住させた。これにより家臣団の被官化を図り、戦国大名体制へと脱皮を遂げたとされ、以後、信玄、勝頼と三代60年余にわたって、領国統治の中心として栄え、城下町も整備された。また、信虎は、館の北方2.5kmに位置する山尾根先端の丸山に詰城として要害山城を築き、さらに躑躅ヶ崎館の北に川窪城、西に湯村山城、南に一条小山城(現甲府城の地)を配して防備を固めた。
天正3年(1575)、勝頼は織田・徳川連合軍との長篠の合戦に惨敗し、甲斐の防衛を図るため大規模な城の築城を決意し、天正9年(1581)正月に新府城の築城を開始、そして、同年10月に居城を同城へと移した。
しかし、織田信長の武田領攻撃は急で、入城から僅か70日足らずで新府城に火を放ち東方目指して落ち延びたが、天目山で自刃、甲斐源氏の嫡流武田氏は滅亡した。
武田氏滅亡後、甲斐国は信長の家臣・川尻秀隆が領有するところとなったが、本能寺の変が起こり甲斐国人一揆が蜂起し秀隆は討たれ、空白となった武田氏の旧領を巡り、徳川家康と北条氏直が争った。この争いを優位に終えた家康が甲斐を領有することとなり、躑躅ヶ崎館に平岩親吉を置き甲府城代とし、館の改修を行わせ、曲輪(梅翁曲輪)の増設や天守台などが築かれた。
なお、廃城時期は明らかでなく、甲府城の築城期には併存していたと考えられている。

構造と感想
相川の扇状地の扇頂部に立地した平城で、当初は土塁と堀を巡らした単郭式の縄張りであり、純粋に居館として築かれたと考えられている。その後勝頼が堀を隔てた西側に西曲輪を、北側に東から御隠居曲輪、無名曲輪、味噌曲輪を増設したとされる。さらに、天正10年以降に入った徳川家臣の平岩親吉時代に南側に梅翁曲輪を設けられている。
この城は平城で、北側では城の内よりも城外の方の土地が高く、また、東側は近くまで突出した尾根(躑躅ヶ崎)が迫っており、防御上の弱点となっている。これらをカバーし城郭として機能するように改修を重ねたとされる。
現在でも明瞭に残るのは、武田信玄を祭神として祀る武田神社が建つ主郭である中曲輪(当時は東曲輪と中曲輪に低土塁で分割されていた。)と西曲輪の周囲である。それ以外に味噌曲輪と梅翁曲輪の土塁や堀の一部が残っている。また、東曲輪東面の大手虎口(当時は丸馬出しを伴った。)外には一文字の石塁が、北面虎口の外側には馬出遺構の一部が、西曲輪の南と北面には内枡形を伴った虎口がよく残っている。さらに、中曲輪と西曲輪の四囲を取り巻く堀は深さ巾とも大規模であり、城郭らしさを十分に感じられる。
なお、中曲輪の北西隅に石垣造りの天守台が残るが徳川時代のものとされ、北と西面の石垣は土塁上に積まれ高さは1m程であるが、東と南面は高石垣となっている。
ところで、大手門外側が発掘調査され、丸馬出しと三日月堀が復元されているようです。

道 案 内
中央自動車道の甲府南インターを下りた甲府南IC入口交差点を左折し国道358号に入り、道なりに8.6km程行った右手に甲府警察署と甲府市役所があり、そこの甲府警察署前交差点を右折する。東に100m程行った甲府警察署東交差点で左折し、県道31号線に入る。北に350m程行くと右手に甲府城が見え、その先の中央本線の陸橋を渡り、最初の信号交差点で左折し、120m程先の甲府駅北口交差点を右折する。JR甲府駅北側の県道31号線(武田通り)を真直ぐ2.1km行くと武田神社に至る。神社境内が館跡である。神社前に駐車場がある。

       TOPへ   戻る

 

中・西曲輪の南側の堀

中曲輪の天守台石垣
 
      天守台の北西角             武田神社正面