新府城  No19207−01 (しんぷじょう)       

大手の丸馬出、手前は内枡形 堀跡と出構

城郭の概要                  
別  名 : 韮崎城、
所在地 : 韮崎市中田町中条字城山 
築城年 : 天正9(1581)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、空堀、土橋、馬出、三日月堀、虎口、
訪城日 : 平成22年11月20日

歴   史
天正3年(1575)武田勝頼は織田・徳川連合軍との長篠の合戦に惨敗し、甲斐の防衛を図るために大規模な城の築城を決意した。天正9年(1581)正月、真田昌行を普請奉行に新府城の築城を開始し、そして、城は未完成であったが同年10月に居城を躑躅ヶ崎館から新府城へと移した。
しかし、天正10年(1576)正月、木曽義昌の離反を発端に織田信長の武田領攻撃は急で、3月2日には高遠城が落城し、勝頼は入城から僅か70日足らずの翌3日に新府城に火を放ち小山田信茂の岩殿城を目指し落ちていったが、信茂も離反し、11日天目山野田の里(山梨県甲州市大和町)に追い詰められ、夫人と息子信勝ともに自害した。ここに新羅三郎義光以来28代続いた甲斐の名門武田氏は滅亡した。
武田氏滅亡後、甲斐国は信長の家臣・川尻秀隆が領有するところとなったが、本能寺の変が起こり甲斐国人一揆が蜂起し秀隆は討たれ、空白となった武田氏の旧領を巡り、徳川家康と北条氏直が争うこととなった。北方から甲斐をうかがう氏直に対し、家康は新府城を修築して本陣とし、三ヵ月近く対峙し、この間に武田の旧臣を家臣に加えて優位な立場を築き、10月末に和議を結んだ。この後も新府城に留まり戦後処理を行い、12月に甲府にもどり、新府城は廃城になったと考えられている。

構造と感想
新府城は、釜無川の浸食によって出来た七里岩と呼ばれる大絶壁の上に広がる起伏の多い河岸段丘上の一突起に築かれている。この段丘の東側こは塩川が流れ、段丘の幅は1.5km程で、南南東の5km程先で塩川は釜無川に合流し、三方を河川に囲まれた天然の要害地形である。また、北側は、2km先に能見城を配し、そこから東西へ河川に達するまで土塁や斜面を伸ばし、外郭城壁としている。
城の規模は、南北600m、東西550mで、外堀水面からの比高は約50mの平山城である。頂部に南北120m、東西90mの本丸を置き、四囲に土塁を巡らしている。本丸の東側に稲荷曲輪、西側に帯曲輪がめぐり、その下方は斜面となっている。虎口は、内桝形を伴った虎口を南西隅と北西隅に設け、さらに西側中央に大きな外桝形を伴った虎口を開けている。大きな外桝形は南西隅の虎口西側にも設けられており、更にその西側に二ノ丸が置かれ、二ノ丸から大きな桝形を直進で通り抜け、本丸南西虎口に入る構造となっている。本丸から二ノ丸の南側には腰郭を付帯させ、南側の中央と西寄りに食違い虎口を、北側の西寄りに二ノ丸に通じる平入り虎口を設けている。腰郭の南側下にはもう一段の腰曲輪、更にその下方に土塁で東西に仕切った三ノ丸を配置している。その一段下は土塁を伴い裾をめぐる帯郭で、東側中程から北側にかけては谷を利用した水堀を設けている。裾をめぐる帯郭の南東隅に大手口が置かれ、三日月堀を伴った丸馬出とその内側の直進式桝形で構成された虎口で、武田流築城の典型的形態である。 
搦手は、幅広い水堀と堀内に突出する出構を二ヵ所設けているが、西側半分は斜面も緩く、また外側(北方)に高い地形が迫っているため、水堀を二重にしている。二重堀内の郭は、東西100m、南北25m長方形で、その北西隅に内側が大きく、外側が小さい土塁に囲繞された東西約13m、南北約12mの桝形虎口があり、一の門(外側))を北西角に、二の門(内側)を南東隅寄りに設けている。この枡形を出て右に折れると外堀に土橋が架かっている。
二重堀内の郭の南側中央に内堀を渡る土橋があり、渡って左に折れ堀沿いを50m程東進、南東に斜面を登り二ノ丸の北東隅寄りの虎口へと至っている。
この城は未完であり、居館の性格が強いが、複雑で巧みな構造の虎口や城内道がよく残っており、武田流の築城術を大いに楽しめる城跡である。

道 案 内
中央自動車道の韮崎インタを下りて、左折し県道27号線に入る。県道を道なりに2km程西進すると七里岩トンネルに入り、トンネルを出て50mで左折し150m程坂を登った先のT字で左折する。県道17号線に入り、北に3km程行った左手が城跡である。城跡を越えたところの右側に駐車場がある。

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  本丸と西側の土塁     本丸南西虎口の大きな外桝形

 
搦手の枡形          搦手の内堀
 
 
大手の三日月堀      北西下方の井戸