甲府城  No19201−01 (こうふじょう)       

天守台 稲荷櫓

城郭の概要                  
別  名 : 一条小山城、舞鶴城、甲斐府中城、
所在地 : 甲府市丸の内1丁目
築城年 : 天正10年(1582)
形  式 : 平山城
遺  構 : 天守台、石垣、堀、復元櫓、復元門、
訪城日 : 平成22年11月22日

歴   史
天正10年(1582)武田氏滅亡後、織田信長の家臣・川尻秀隆が甲斐に入部したが、本能寺の変が起こると蜂起した甲斐国人一揆に討たれ、空白となった武田氏の旧領を巡り、徳川家康と北条氏直が争った。この「天正壬午の乱」を優位に終えた家康が甲斐を領有することとなり、翌年、家康は重臣・平岩親吉に命じ一条小山に甲斐統治のための新城を築かせた。これが甲府城のはじまりとされる。
天正18年(1590年)家康の関東移封後、甲斐には羽柴秀勝、加藤光泰が入り、文禄2年(1593)には浅野長政が入部し、この間築城が続けられ、浅野氏時代に一応の完成を見たとされる。浅野氏時代の甲府城は、関東の押さえの役目を担っていたため、東国では珍しい総石垣造りであった。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の功により浅野氏は和歌山へ転封、甲斐は天領となった後、慶長8年(1603)から徳川家一門の徳川義直、同忠長、同綱重、同綱豊が城主となるが殆ど在城せず、城番・城代制がしかれた。
宝永元年(1704)柳沢吉保が武蔵川越より15万石余で入封し、城の修築と城下町の整備を行ない、子の吉里が跡を継いだが、享保9年(1724)大和郡山へ転封となり、以後、幕府直轄領として甲府勤番が置かれ明治を迎えた。
明治維新後は廃城となり、建物が取り壊され勧業試験場や葡萄酒醸造所などが設置され、また、城域の北部は明治30年から36年に中央線敷設で解体されるなど本来の姿が失われていった。
一方、保護・保存の動きもあらわれ、大正6年(1917)には甲府市在住の村松甚蔵が尽力し、陸軍省から城地の払い下げを受け、県へ寄付した。戦後は、市街地復興に併せて整備が進められ、昭和39年に都市公園「舞鶴城公園」、昭和43年に県指定史跡「甲府城跡」となった。

構造と感想
甲府城は、甲府駅の南にある比高20m程の小丘陵を中心に築かれている平山城である。
構造は、頂部の本丸を中心として二の丸、東曲輪、南曲輪、西曲輪からなっている。本丸の東端に不整形で大きな穴蔵を持つ古式な形態の天守台を置き、周囲に帯曲輪と天守曲輪を配し、その西側に一段下がった二の丸を設け、南部を台所曲輪としている。本丸の東北側は一段低い東曲輪で、稲荷曲輪と東南隅の数寄屋曲輪からなる。本丸の東南側は鍛冶曲輪でさらに低い。これらの西側に広大な西曲輪が広がり、その中央に堀で囲繞された屋形曲輪を置き、北西側を清水曲輪が、南西側を楽屋曲輪が取り囲んでいる。そして、それらの外周を廻る堀を設け防御を固めていた。
現在は、西曲輪を除き残存する城地が鶴舞公園として整備されており、鍛冶曲輪四足門・内松陰門・稲荷門・稲荷曲輪にあった二層の稲荷櫓と白壁の塀が復元され、更に線路を挟んだ北側に清水曲輪の枡形虎口にあった山手門・山手櫓門が復元されている。
平成2年度から10年計画で行われた発掘調査では、本丸東部付近から多量の金箔を施した飾り瓦や鯱瓦が出土し、造営されなかったと云われている天守が存在した可能性が出てきたとされている。もし建てられていたとしたら五層の天守が十分建つ天守台の大きさである。
金箔瓦は織豊系城郭の象徴であり、その出土、不整形な天守台や曲輪の形状、緩やかな野面積みの石垣など織豊系城郭の特徴が色濃く残されており、見応えがある。

道 案 内
JR中央本線「甲府駅」の南東側に隣接する「舞鶴城公園」一帯が城跡である。駐車場は周辺の有料駐車場を利用。

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内松陰門           鍛冶曲輪の石垣  

 
本丸の鉄門跡      稲荷曲輪井戸と本丸・二の丸石垣


清水曲輪の山ノ手門