和歌山城  No30201−01 (わかやまじょう)       

天守 楠門(天守への二之門)

城郭の概要                  
別  名 : 虎伏城、竹垣城
所在地 : 和歌山市一番丁
築城年 : 天正13(1585)
形  式 : 平山城
遺  構 : 復元天守、櫓、門、石垣、堀
訪城日 : 平成28年5月16日

歴   史
天正13年(1585)羽柴(豊臣)秀吉は、秀長・秀次を副将とし6万の大軍を率いて紀州攻めを行った。紀州を平定した秀吉は、紀伊、和泉の二ヵ国を秀長に与え、普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、紀ノ川河口の小丘「吹上の峰」に城郭を造営して若山城と名付けた。のちに和歌山城と改められている。
当時、秀長は大和郡山城を居城としていたため、この城には城代として重臣の桑山重晴を在城させた。慶長5年(1600)浅野幸長が関ヶ原の戦いの戦功により37万石を拝領し、甲斐甲府から和歌山城に入り、早々に内堀や石垣などの増修築を行なった。連立式天守を建て、現在の本丸、二の丸、西の丸に屋敷を造営し、大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。
元和5年(1619)浅野家は安芸広島へ国替えとなり、代わって徳川家康の第10子頼宣が55万5千石を賜って和歌山城に入城し、御三家紀州藩が成立した。この際、二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め、南の丸、砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ今に残る城を完成させた。
なお、火災被害も度々受けており、弘化3(1846)年7月26日昼、天守に落雷して、大小天守、櫓四か所、蔵三棟、多門櫓六十三間等を焼失し、嘉永3年(1850)に再建されたが、昭和20年7月の空襲により再び焼失した。現在の天守は昭和33年に嘉永3年再建時の外観で復元された。
紀州徳川家は、14代続き明治を迎えている。そして、8代将軍吉宗は紀州5代藩主である。

構造と感想
和歌山城の内郭は堀が一部で狭まっているほか、ほぼ当時の縄張りを残している。虎伏山の西峰に天守郭、東峰に本丸御殿、北麓に二の丸、二の丸から御橋廊下を西に渡ると西の丸、その西と東麓に砂の丸、南下に松の丸、その下に南の丸が配されており、砂の丸を除く外縁には堀を廻らせている。
この内郭への五ヵ所の入口で、岡口門と追廻門は江戸期の門が現存し、大手門は昭和57年の復元である。その他には、戦災で焼失した連立式天守(三層大天守と二層小天守、二之御門櫓と乾櫓を多聞櫓で結ぶ。)が鉄筋コンクリートにより外観復元されているが、建物内部は現代風で興ざめである。また、落城時の脱出ルート用の小天守脇の台所地下にある埋門も縁をコンクリートで補強しており、外観復元の雰囲気を損ねているのが残念である。
しかし、石垣は良く残されており、特に岡口門から入った中御門跡や松の丸櫓の高石垣が見事である。また野面積み、打ち込みはぎ、切り込みはぎなど多様な積み方や石材も「青石」と呼ばれる緑泥片岩や和泉砂岩、熊野花崗斑岩がみられ、時代による技術の変遷をみることができる。
なお、地図を見ると中堀も残っているようである。

道 案 内
阪和自動車道の和歌山インターを降りて、国道24号和歌山バイパスを和歌山市内への南西方向に入る。1.4km程進み花山交差点を直進し県道138号線に入る。県道138号線を道なりに3.2km程走った右手が和歌山城である。時間料金の有料駐車場がある。

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埋門と乾櫓            連立式天守入口の楠門

 
楠門・続櫓と乾櫓            重文の岡口門

 
追廻門             大手門

 
松の丸櫓台             表坂

 
続東櫓の石垣       本丸御殿郭の南側石垣

 
南の丸仕切り門               東側内堀と城址碑

 
御橋廊下            東側内堀