新保山城  No18204−02 (しんぼやまじょう)       

頂部の土塁付きの郭 四ノ堀切

城郭の概要                  
別  名 : 霞美ヶ城
所在地 : 小浜市新保
築城年 : 大永年間(1521〜28)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、井戸
訪城日 : 平成27年5月10日

歴   史

室町時代の宮川は幕府御料所で若狭守護武田氏の被官粟屋氏が代官を務めており、主家である武田元光が大永2年(1522)に後瀬山城を築城した頃に粟屋元隆も新保山城を築いたと推測されている。
粟屋氏は奉行に列せられ守護権力と並ぶ勢力を誇ったが、天文7年(1538)守護武田信豊に叛乱を起こすも天文11年(1542)討死した。信豊は新保山城に弟・信高を入れ、後瀬山城の東方を守備する支城の役割を担わせた。
弘治2年(1556)信豊・義統父子間の争いが勃発し、信高は信豊方に付いたが同年死去。信高の跡目は信豊の次男信方が継ぎ、優れた武将・奉行人として衰退する武田氏の回復に活躍した。その拠点である新保山j城の整備も永禄年間(1558〜69)に信方が行ったと推定されている。
元亀元年(1570)織田信長が越前侵攻を開始すると、信方は越前朝倉氏と結び織田軍に徹底抗戦し、信長の撤退で一時は若狭の統治を任されたが、天正元年(1573)小谷城主浅井長政・越前一乗谷の朝倉義景が信長に滅ぼされると、信方は足利義昭の備後(広島県東部)へ逃れたとされる。天正12年(1584)若狭に丹羽長秀が入部し、新保山城は破却されたと推測されている。


構造と感想

新保山城は、小浜市域の東に位置する宮川谷のほぼ中央、新保集落北側の裏山、標高293.6mを頂点とする東西に蛇行し北から南に延びる稜線上に、全長250m、最大巾17mの規模で築かれた山城である。
なお、この山城の北部から西に派生した支尾根中段に東西200m、最大巾50mの城台、頂部から東に派生した支尾根の中段に東西60m、最大巾40mの小郭群、そして主尾根の南端に南北150mの見張所が設けられており、若狭国では守護武田氏の本城である後瀬山城に次ぐ大規模な城砦である。
近年、手入れされていない山が増えているが、この山も全く手入れされておらず、倒木や積もった枝葉で尾根筋に出る道が途中で分からなくなり、適当に直登して尾根筋に出る。右手に尾根筋を登って行くと堀切があり、それを越え進むと小段が現れる。ここからが城域で、5本堀切で5ブロックに区画されている。小段群の北側に一ノ堀(切)、疎らな段郭の北に巾16m、高低差10mの二ノ堀(切)、段郭が六段連続しピークの帯郭と方形郭が築かれている。北側に三ノ堀(切)があり、段差の小さい四郭が続き、一段上がって最高所の三郭となる。頂部の北二郭には北東側に土塁が付帯している。そして巾16mの四ノ堀(切)があり、二ノ堀(切)から四ノ堀(切)間がこの城の主郭である。四ノ堀(切)の北側は大きく下がって段差の少ない三郭が続き五ノ堀(切)となる。さらに外側にニ本堀切があり、城域の北端となる。
両サイドの斜面は傾斜で、細い尾根筋を壮大な堀切で区画し、防御を固めた堅固な造りである。遺構の残りは良好で見応えがあるが、立木や倒木が見通しを妨げ、歩き難くもしており、また、登城路も不明なので、体力を消耗するのが難点である。


道 案 内
石仏
北陸自動車道の小浜インターを下りた小浜IC交差点で左折し県道24号線に入る。県道24号線を東に4.8km程行った上野木交差点で左折し県道219号線に入る。県道219号線を北に2.2km程行った宮川小学校北角の十字路で右折し、直ぐに橋を渡る。橋から290m程山裾に向かい進むと二車線道路に突き当たる。右折して220m程東進すると左手に広い路側があり、そこに北から尾根が延びてきており、その尾根の東裾の細い舗装道に入る。470m程行くと左手山裾に墓地があり道が広くなっている。ここに駐車可能です。その80m程先に敷地を石積みで囲った白い人家があり、脇の生垣と田との間を通り山へ入っていく。入ってすぐの石仏裏側から尾根へ登る道がある。     

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登り口             主郭南端の井戸跡

 
南ピークを北より         北端の二重堀切