富崎城  No16362−01 (とみさきじょう)       

主郭と城址碑 井戸

城郭の概要                  
別  名 : 福山城、瀧山城、瀧山壘、
所在地 : 富山市(婦中町)婦中町富崎
築城年 : 嘉吉元年(1441)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、横堀、井戸、馬出し、
訪城日 : 平成24年11月2日

歴   史

富崎城は、戦国時代に越中国で最大の勢力を誇った神保氏の有力支城の1つである。『越登賀三州志』は、嘉吉元年(1441)に神保八郎左衛門が居城していたと伝え、それから100年ほど経て神保氏の本拠である射水・砺波両郡から新川郡へ進出した神保長職が天文年間(1532〜55)に本格的な城郭に改修したと考えられている。
この富崎に城が築かれたのは、近隣の長沢が南北朝時代より婦負郡の政治的中心地だったこと、また、射水郡から飛騨に通じる街道の要地にあたっていたことなどによる。
伝承では、神保長職は永禄年間(1558〜70)に居城であった富崎城を上杉謙信に攻められ、近くの蓮華寺で討死したとされるが、当時の史料によると、神保長職は永禄5年(1562)の戦いで上杉謙信に降り、その後は増山城に本拠を移し、上杉氏に属したとされている。なお、この際の神保氏の居城は富山城で、上杉氏にこの富山城を奪われている。
元亀2年(1571)頃には神保氏は再び上杉氏に敵対するようになるが、暫くして長職は没し、富崎城には長職の旧臣水越氏が一向一揆勢と共に立て篭もり、翌元亀3年謙信に攻められ落城している。この時、謙信により城内は焼き払われ、破却されたが、天正年間(1573〜92)上杉氏が一時この城を使用したと思われ、天正9(1581)長職旧臣の寺嶋牛之助らがここを拠点に織田方に対抗している。しかし、同年5月城を攻められた牛之助らは城に火を放ち、五箇山へ落ちのびていった。その後、佐々成政の支城となり、城生城の斎藤氏攻めの拠点として使われたが、成政が秀吉に降伏した天正13年(1585)頃までには廃城になったと考えられている。


構造と感想

富崎城は山田川の左岸に南から北に延びる台地の北端に築かれている。
北側から西側が山田川に落ち込む急峻な崖地で、北に三角形状の主郭、空堀を隔て南側に二郭を設けている。主郭の東側は切岸で、二郭の東側から南側に空堀が廻らされている。主郭と二郭の間の空堀の中央に土橋が架けられ二郭側に馬出とみられる不明瞭な円形の段がある。主郭には神保城の石碑があり、西隅に大きな石積井戸が残る。
城跡は草深く、遺構の確認がし辛いのが残念である。また、城の東側は改変を受けているようで、不自然な状態である。


道 案 内
北陸自動車富山西インターを降りて県道41号線の南方向に入る。県道41号線を640m程南下した突き当りで右折し県道68号線に入り、西に240m程行った突き当りで左折する。県道31号線を南に2.4km程行くと国道359号と交差する長沢(西)交差点に至る。同交差点を直進し国道472号に入り650m程南下して山田川を渡る。その600m程先のクリニックを越えた富崎(西)交差点で右折する。右折して30m程で左折、50m程南進した十字路で右折する。西に250m程進むと右手に「本覚寺」や「八阪神社」があり、ここから道なりに500m程山へと登って行くと右側が城跡である。(丘の夢牧場や県畜産試験場方面への道です。)

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主郭の北東方向            仕切りの空堀


南側の空堀(横矢折れ)