富崎城は、戦国時代に越中国で最大の勢力を誇った神保氏の有力支城の1つである。『越登賀三州志』は、嘉吉元年(1441)に神保八郎左衛門が居城していたと伝え、それから100年ほど経て神保氏の本拠である射水・砺波両郡から新川郡へ進出した神保長職が天文年間(1532〜55)に本格的な城郭に改修したと考えられている。
この富崎に城が築かれたのは、近隣の長沢が南北朝時代より婦負郡の政治的中心地だったこと、また、射水郡から飛騨に通じる街道の要地にあたっていたことなどによる。
伝承では、神保長職は永禄年間(1558〜70)に居城であった富崎城を上杉謙信に攻められ、近くの蓮華寺で討死したとされるが、当時の史料によると、神保長職は永禄5年(1562)の戦いで上杉謙信に降り、その後は増山城に本拠を移し、上杉氏に属したとされている。なお、この際の神保氏の居城は富山城で、上杉氏にこの富山城を奪われている。
元亀2年(1571)頃には神保氏は再び上杉氏に敵対するようになるが、暫くして長職は没し、富崎城には長職の旧臣水越氏が一向一揆勢と共に立て篭もり、翌元亀3年謙信に攻められ落城している。この時、謙信により城内は焼き払われ、破却されたが、天正年間(1573〜92)上杉氏が一時この城を使用したと思われ、天正9(1581)長職旧臣の寺嶋牛之助らがここを拠点に織田方に対抗している。しかし、同年5月城を攻められた牛之助らは城に火を放ち、五箇山へ落ちのびていった。その後、佐々成政の支城となり、城生城の斎藤氏攻めの拠点として使われたが、成政が秀吉に降伏した天正13年(1585)頃までには廃城になったと考えられている。
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