増山城  No16208−01 (ますやまじょう)       

二の丸の虎口と櫓台 二の丸北側の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 和田城
所在地 : 砺波市増山一の丸
築城年 : 南北朝時代
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、土橋、櫓台、虎口、石積み、井戸、
訪城日 : 平成24年11月2日

歴   史
築城年代は定かではないが、南北朝時代に記された『二宮円阿軍忠状』に、貞治2年(1363)元越中守護桃井直常らの討伐に従軍した二宮円阿が和田城を護ったとあり、この和田城が古地名から増山城のことであると推察されている。ただし、縄張り等から増山城に隣接する亀山城を和田城とする説もある。
戦国時代には越中守護畠山氏の守護代で婦負・射水両郡に勢力を有した神保氏が支城として整備したと考えられている。
永禄3年(1560)神保長職が椎名康胤と対立し、長尾景虎(後の上杉謙信)に富山城を攻められ、この増山城に逃れ立て籠もっている。この時の謙信書状に「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニモ手堅相抱候間」とあり、要害堅固な城であったことが伺われる。
永禄5年(1562)には二度に渡って上杉輝虎(謙信)の侵攻を受け長職は降伏、その後は増山城が神保氏の本拠地なった。
永禄11年(1568)それまで上杉方だった椎名康胤が上杉氏を離反し武田信玄と通じたため、神保家中は分裂し、嫡子長住を中心とした反上杉派が台頭し、長職は反上杉方である長住派と内戦状態となり、上杉家の介入によって長住派を壊滅させたが、神保家は上杉氏へ従属することになった。一方、抗争に敗れた長住は信長の元に逃れ、後日富山城を奪回している。
長職は家督を次男長城に譲り、元亀2年(1571)末頃には一向一揆と和睦し、反上杉の立場を採り神保家は再び分裂した。
しかし、長職は元亀3年(1572)に没し、天正4年(1576)増山城を謙信に攻略され、長城は行方不明となり神保氏は滅亡した。この結果、増山城へは上杉氏の武将である吉江宗信が城将として入城したが、天正9年(1581)織田勢の攻撃を受け落城、佐々成政の持ち城となり重臣の佐々平左衛門や佐々源六(勝之)、直属の馬廻り衆を入れ護らせた。
天正13年(1585)羽柴秀吉の越中征伐によって佐々成政は秀吉に降り、成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増され、増山城には利家の娘婿中川清六(光重)や山崎長鏡が入った。
天正14年(1586)上杉景勝が上洛途中に増山城主であった中川光重に中田に於いて饗応を受けている。その後、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

構造と感想

増山城は、砺波市東部、庄川支流の和田川に存するダム湖である増山湖東岸の丘陵上に築かれている。西側を和田川、南から東側にかけては深い谷で守られ、北には亀山城や孫次山砦が配され、対岸には城下町があり、松倉城、守山城と並び「越中三代山城」と称されている。
構造は、山全体に大小の郭が数多く築かれているが、尾根筋上に東から一の丸、二の丸、三の丸と並び、その北側の山続きに屋敷地が散在し、さらに谷を隔てて亀山城や孫次山砦が配される一大山城である。
各郭間は深い堀切や横堀によって区画され、独立性が強いが、この城郭の外周部に西側を除き大規模な堀切や横堀を入れ、西斜面には竪堀を単体や畝状で入れ厳重な防御線を形成し、一体性をつくっている。二の丸の南と北側の斜面には数段の腰郭が付帯しており、また、二の丸跡には日照りにも枯れない「神水鉢」や北西側の裾に築城の折に家臣の山名又兵衛が発見したと伝わる「又兵衛清水」があり、中心となる郭と思われる。
城跡には、遊歩道や案内板が良く整備され、中心部や主だった遺構の草刈りも丁寧にされ見やすくなっているが、その他 周辺は草が生え確認しづらい状態であった。


道 案 内

北陸自動車道の砺波インターを降りて国道359号の東方向に入る。230m東進した太郎丸交差点で左折し国道156号に入り、北に1.4km程行った花園町交差点で右折し国道359号に入る。国道359号を東に5.1km程行った頼成北交差点で左折し県道11号線に入り、北に1.4km程行った権正寺交差点で右折し県道72号線に入る。県道72号線を東に450m程行った宮森交差点を直進し県道72号線に入り、さらに道なりに750m程行った宮森新交差点で直進する。70m程先の幼稚園手前で左折し北に道なりに1.7km程行くと和田川ダムがありダムを渡ると増山城駐車場がある。下の縄張図の左上の「P」の位置である。


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神水鉢              又兵衛清水

 
二の丸虎口          二ノ丸鐘楼堂

 
一の丸北端の堀切の竪堀         城下の土塁