富山城  No16201−01 (とやまじょう)       

千歳御門 本丸南側の堀と郷土博物館

城郭の概要                  
別  名 : 安住城
所在地 : 富山市本丸
築城年 : 天文12年(1543)
形  式 : 平城
遺  構 : 石塁、土塁、堀、櫓台、虎口、土橋、
訪城日 : 平成24年11月2日

歴   史
富山城は、天文12年(1543)越中婦負・射水両郡を支配していた神保長職が、上杉氏の代官・椎名氏の治める越中東部の新川郡へ進出するため、その拠点として築いたとされ、以後、神保氏の居城となった。
しかし、神保氏の新川郡進出は上杉謙信の出兵を招くこととなり、永禄3年(1560)長職は謙信に富山城を追われたが、その後も増山城を拠点に武田信玄と結び椎名氏攻略を続けた。このため、永禄5年(1562)二度に亘る謙信の進攻を受け遂に降伏させられた。天正4年(1576)頃には謙信が越中全域を手中に収め、富山城には家臣の小笠原長隆、上杉信定らを城番として置いた。天正5年(1577)には能登も平定した。
ところが、天正6年(1578)謙信が急逝し、織田信長の勢力が越中に迫り、天正8年(1580)織田方に付いた神保長住が富山城を奪い返し、天正9年(1581)佐々成政が信長の命により越中に封ぜられた。長住は成政の麾下に入れられたが、天正10年(1582)上杉方に通じた家臣により長住は幽閉さてのちに解放されるが、その責めを負わされ失脚、替わって成政が富山城主となった。
しかし、本能寺の変で信長が斃れ、羽柴秀吉が台頭すると、成政は秀吉と対立するようになり、天正13年(1585)秀吉の討伐を受けて降伏、富山城は破却された。
文禄4年(1595)前田利家は、秀吉から富山城のある新川郡を与えられ、慶長2年(1597)嫡男・利長が富山城に入り近世城郭へと整備を行い2年間在城したが、利長は利家の跡を継ぎ金沢城に移った。慶長10年(1601)隠居した利長は再び富山城に入ったが、慶長14年(1609)3月大火によって富山城は焼失、利長は新たに隠居城として高岡城を築城し、同年9月に移った。富山城には城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
寛永16年(1639)加賀藩は前田利次に10万石を分与し、富山藩を立藩させると、利次は廃城になっていた富山城を居城とし、本格的な整備を行った。この富山前田家は廃藩置県まで13代続いたが、富山城は明治6年(1873)の廃城令により廃城となり、現在は本丸と西之丸部分だけが公園となって残るのみとなっている。

構造と感想
内堀と外堀の二重の堀に囲まれた梯郭式の平城で、本丸は神通川(現在は蛇行修正され西側を直線的に流れている。)の自然堤防の少し高い場所に置き、北と西の神通川、東のいたち川、南の四ツ谷川を外郭防御線とし、南東部に寺町を配して守りを固めていた。
この城は、土塁主体の城で、石垣は本丸と二之丸の枡形門だけに用いられ、天守は建てられていなかったそうだ。
現在、城址公園となり、本丸南側の堀と石垣、そして本丸枡形虎口の石垣上に三層の模擬天守が建てられている。天守内部は、郷土博物館である。また、本丸東虎口の南側に元々は千歳御殿の門であった千歳御門が移築復元されている。
遺構の残りは良くないが、水堀越しに眺める石垣と模擬天守や千歳御門と石塁は近世城郭らしい雰囲気を味わうに十分である。

道 案 内
北陸自動車道の富山インターを降りて国道41号の北方向に入り、4.3km程北上した左手が城址公園で、城跡である。有料の城址公園地下駐車場がある。

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東虎口脇石垣         西出丸・本丸跡の南東方向