高岡城  No16202−01 (たかおかじょう)       

本丸内 西内濠と土橋側面の石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 高岡市古城
築城年 : 慶長14年(1614)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、石塁、堀、土橋、
訪城日 : 平成22年6月27日

歴   史
文禄4年(1595)前田利家は、羽柴秀吉から富山城のある新川郡を与えられ、守山城主であった嫡男・利長を慶長2年(1597)に富山城に入れた。利長は富山城を近世城郭へと整備し2年間在城したが、慶長3年(1598)利家の後を継ぎ、加賀藩前田家の第二代当主となり金沢城へ移った。
慶長10年(1605)利長は隠居して再び富山城に戻ったが、慶長14年(1609)3月城下の大火により富山城内の大半の建物が類焼し、利長は魚津城に移り、幕府の許可を得て、当時関野と呼ばれてれていた地に新城の建設と城下の整備を行った。その城は、前田家の客将となっていたキリシタン大名で、築城の名手とされた高山右近が縄張したと伝承されている。また、利長はこの地を「詩経」の一節から「高岡」に改め、同年9月に入城した。
しかし、その5年後利長は死去し、元和元年(1615)の一国一城令により高岡城は廃城となっるが、城の建物は取り壊されたものの、堀や土塁等は破却されずに残され、城内には米蔵や塩蔵を置いて「古御城(ふるおしろ_)」と称して加賀藩高岡町奉行の管理下に置かれ監守人が配置された。
明治時代となった明治3年金沢藩は高岡城跡を民間に払い下げ、開拓を命じた。明治5年には樹木伐採の落札者なども決まったが、長年高岡町民の誇りであった城跡が失われてはならないと、服部嘉十郎らが公園指定の請願書を県に提出し、こうした彼らの尽力により明治8年7月4日城跡は公園指定され「高岡古城公園」として残り、現在に至っている。

構造と感想
城の構造は、本丸を中心に、南側に二ノ丸、二ノ丸の東側に鍛冶丸、鍛冶丸の北側に明丸と三ノ丸を一列に並べ、三ノ丸の北西側・本丸の北側に小竹藪が配置されている。それらの各郭は、広大な水堀で囲繞され、本丸と二ノ丸を囲む水堀は幅が50mを超えている。本丸から見て西側を除く三方は二重の堀になっているが、西側は一重で防御が手薄のように思われるが、当時は沼地が広がっていたようで、それが外堀の役割を果たしていたとされる。なお、小竹藪周辺は古絵図でも形状は不整形で堀も小川程度のものしか描かれておらず、利長の死去により普請が中止され未完成状態のままとなった。
城の骨格となる郭と堀のほかに遺構としては、二の丸と本丸間の土橋側面に築城当時の石垣が残り、桝形虎口を形作っていた土塁は消失しているが、本丸の四周と二ノ丸、鍛冶丸、明丸、三の丸の外堀側に築かれていた土塁がおおむね残っている。さらに、非常に高い防御力もつとされる連続(重ね)馬出が、「二ノ丸と鍛冶丸」、「現在の梅林と三ノ丸」に見ることが出来る。

道 案 内
北陸自動車道の砺波インターを降りた砺波I・C前交差点を右折し、220m程東進した太郎丸交差点で左折する。国道156号に入り北方向に道なりに15.8km程行った広小路交差点で右折し、県道44号線に入り南東に210m程行った右側が古城公園で公園駐車場がある。その南西奥が城跡である。

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現地の案内図

  三の丸の民部の井戸      前田利長公像

  
高山右近像                   本丸西側の堀