城生城 No16361−01 | (じょうのうじょう) |
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主郭櫓台の南方向 | 主郭西側の空堀 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : 城尾城、蛇尾城、恵智谷城、天狗平城、 |
所在地 : 富山市(八尾町)八尾町城生字城鉄砲町 |
築城年 : 南北朝期 |
形 式 : 平山城 |
遺 構 : 土塁、堀切、空堀、土橋、虎口、石積、櫓台、虎口 |
訪城日 : 平成24年11月2日 |
◆ 歴 史 |
城生城は、越中国婦負郡南部を支配していた斎藤氏が文和年間(1352〜56)に築いたと考えられている。 斎藤氏は、南北朝時代の斎藤左衛門大夫入道常喜が北朝方に属して南朝方の桃井直常討伐で功を挙げ、足利尊氏より婦負郡楡原保を賜ったことに始まり、この際に支配の拠点として城生城を築いたと推測されている。 その後、斎藤氏は独立した勢力へと成長し、長らく神保氏と敵対関係にあったが、天文12年(1543)神保長職は神通川を越え越後上杉氏の代官・椎名氏領に侵入し富山城を築き、上杉・椎名両氏と対峙し、その際、椎名氏と誼を通じていた斎藤伯耆守利基の拠る城生城も包囲された。翌天文13年(1544)能登守護・畠山義統の仲介により和睦したが、斎藤氏は神保氏に服属することとなった。 このため、天文21年(1552)には上杉方の願海寺城主・寺崎民部左衛門盛永や元亀2年(1571)には飛騨国の国人で越中国猿倉城主・塩屋筑前守貞秋に攻められるが、要害の城生城は落ちなかったようである。 天正4年(1576)上杉謙信が越中、能登へ侵攻して来ると斎藤信利は上杉氏に属するが、天正6年(1578年)上杉謙信が没すると、信利は弟の信吉と共に織田信長へ誼を通じるようになり、飛騨から侵攻した織田軍に従い、上杉方の越中国今泉城を落城させるなど、織田方の越中進出に大きな役割を果たした。 しかし、天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれると、信利は織田方を離れ再び上杉景勝と結ぶが、天正11年(1583)越中国を治めていた佐々成政の攻撃を受け、1年余りに及ぶ籠城戦の末に落城、信利は飛騨へ落ちのびたと伝わっている。 その後、城生城には佐々与左衛門が入り、前田氏支配時には青山佐渡守、篠島織部らが入ったが、慶長年間(1596〜1615)中頃に廃城となったされる。 |
◆ 構造と感想 |
城生城は、神通川とその支流である土川に挟まれた台地上に築かれた平山城で、北・東・西側の三方が急峻な崖地の要害地形である。また、立地は、飛騨との国境に近く、軍事上、交通上の要衝に位置している。 |
◆ 道 案 内 |
北陸自動車道の富山インターを降りて国道41号の南方向に入る。国道41号を南に8.7km程行った大沢野小学校角の高内交差点で右折し、西に2.4km程行くと県道25号線に突き当たる。突き当たりで右折して道なりに900m程北上すると右手に案内板と標柱が建っている。ただ入口付近に駐車スペースがない。 |
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![]() ![]() ![]() 主郭東側の竪堀 主郭南方向 ![]() ![]() |