宮崎城  No16343−01 (みやざきじょう)       

本丸と平地 本丸よりの眺望

城郭の概要                  
別  名 : 荒山城、泊城、境城、堺城、
所在地 : 下新川郡朝日町宮崎字城山
築城年 : 寿永元年(1182)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、堀切、土橋、竪堀、虎口、
訪城日 : 平成24年11月3日

歴   史

宮崎城は、平家討伐の令旨を発した以仁王の第一皇子北陸宮が寿永元年(1182)に北陸に逃れ、これを木曽義仲が庇護し、配下の在地武士であった宮崎太郎長康に八幡山(城山)に御座所を築かせたのがはじまりとされる。
南北朝時代には、越後守護上杉憲顕の命により守護代長尾景忠が南朝勢力の籠る越中宮崎要害で勝利を得たと記す史料が残り、永正16年(1519)には越後守護代長尾為景が能登守護職畠山義総とともに越中守護代神保慶宗を討伐し、永正18年(1521)この功により越中国新川郡守護代を与えられ、この宮崎城は越後長尾氏の越中における拠点になった。
永禄3年(1560)富山城主神保長職が武田信玄に通じ、上杉方の椎名康胤を松倉城に攻めたため、長尾景虎(上杉謙信)は越中に出陣した。しかし、その康胤が永禄11年(1568)武田信玄と結び上杉氏に叛いたため、謙信は松倉城を攻略し、椎名氏を追放して新川郡を勢力下に置いた。その後、上杉氏は越中侵攻を図り、遂に天正4年(1576)神保氏の増山城、椎名氏の蓮沼城を攻略して越中制圧を成し遂げた。この間、謙信は越中の諸城に城将を配置しており、宮崎城には柿崎和泉守景家らを在城させた。
しかし、天正11年(1583)宮崎城は佐々成政に攻略され、天正13年(1585)には成政も羽柴秀吉の征伐を受け降伏、これにより越中は前田利家の領国となり、宮崎城には家臣の高畠織部が配されたが、慶長19年(1614)境関所が整備され廃城となった。


構造と感想

宮崎城は、越後との国境近く、東に宮崎・境海岸、西に黒部平野を見下す位置にある標高248.8mの城山山頂に築かれている。山下に旧北陸道が通り、越後との国境となる境川の左岸には関所が設けられた要衝の地であった。
構造は、東端の小高くなった土壇上が本丸で、一段下がって北側を除き帯郭状の平地が取り巻いている。その西側に土橋状の通路を介して二の丸が、さらに細長い小郭を経て三の丸が配されている。本丸土壇の側面や本丸と二の丸間の土橋状通路の側面には石垣が積まれ、三の丸の南側には石塁が残存している。また、三の丸には、北陸宮の御墳墓と宮崎太郎長康の供養塔が建てられている。二の丸の北東斜面に設けられた七曲がりの登城路を下ると堀切が残るようである。
本丸の南側は、本来は堀切であったようだが、太平洋戦争時に旧陸軍が土橋を架け、その南にあった郭も旧陸軍により激しい改変が加えられ、現状は公園になり旧状を失っている。しかし、公園の南端には堀切が残ることから城域内であったと思われている。
このように一部改変を受けているが、戦国期の縄張りの基本部分は残存しており、また、城跡からの眺望は素晴らしく、訪城する甲斐のある城跡である。


道 案 内
北陸自動車道の朝日インターを降りて国道8号の東方向に入る。国道8号を2.7km程東進した横尾西交差点を右折し県道103号線に入り東に900m程で北陸道の高架橋下を潜って120m程進んだ所で左折する。ここに道標が出ている。ここから道なりに1.5km程行くとY字路があり左手に進み、その40m程先のY字路をまた左手に進み、終点の山頂近くの駐車場に至る。

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 三ノ丸の石塁          二ノ丸、三ノ丸間の通路側面

 
 北陸宮の墳墓           城主宮崎太郎の供養塔