常山城  No33104−01 (つねやまじょう)       

本丸の石垣 女軍の墓

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 玉野市宇藤木・岡山市南区灘崎町迫川
築城年 : 文明年間(1469〜87)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、井戸、堀切、
訪城日 : 平成22年3月21日

歴   史
常山城は、文明年間(1469〜87)に児島郡北西部の国人である上野氏によって築かれたと考えられている。以後、上野氏が代々備中南部の有力国人と結び、常山城を居城に児島北東部を支配したとされる。
戦国期後半の常山城主・隆徳は、備中の戦国大名であった松山城主の三村元親と血縁を結び、三村氏の領国支配における南東部の拠点を担い、備前の宇喜多直家を牽制する役割を果たしていた。
しかし、天正2年(1575年)三村氏が毛利氏に叛旗を翻したため、毛利氏は三村氏討伐の軍を起こし、翌年に三村元親を松山城に攻め自刃させ、三村一族の最後の拠点である常山城を大軍で攻撃し、隆徳一党を滅亡させた。この合戦は、城兵わずか二百余に対して、数千の毛利勢が攻め、城主高徳の妻・鶴姫以下33人の侍女も戦列に加わり全滅した凄惨な戦いで、「常山合戦」と称されている。
その後、毛利氏は家臣を城番に置いたが、天正4年(1576)には同盟者の宇喜多直家に城を譲り、直家は重臣の戸田秀安を城主とした。
天正7年(1577)宇喜多氏が毛利氏を離叛し織田氏と結ぶと、毛利氏は宇喜多氏討伐を図り、常山城も攻撃したが落とせなかった。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦で宇喜多秀家は改易となり、岡山城には小早川秀秋が入城し、常山城に重臣の伊岐真利を配したが、慶長8年(1603)秀秋の病没により小早川家は断絶となり、次いで岡山城主となった池田忠継は、常山城を廃城とし、資材を下津井城改築に利用したと伝えられている。

構造と感想
常山城は、岡山平野から鉤形に突出した児島半島を貫く児島連山から北側中ほどで児島湾沿岸に突出した半独立山塊である「児島富士」と呼ばれる標高307.2mの常山山頂に築かれている。
備中と備前の国境南部に位置し、境目の城として両国の勢力が錯綜し合い、備前国でも屈指の構造と規模を備えた城郭遺構が残存している。
構造は、山頂から北に延びる主尾根と北東に延びる支尾根に郭を構えたV字型をした連郭式山城である。山頂に本丸を置き、南側に腰郭(兵庫丸)を付帯させ、北に延びる主尾根には本丸に続き小型の四郭(北二の丸、北三の丸、天神丸、無名小郭)を階段状に配置し、その先に段状に下る大型の二郭(青木丸、栂尾二の丸)を置き、先端には一段上がった本丸に次ぐ大型の郭(栂尾丸)を築いている。北東に延びる支尾根にも本丸下に二段の小腰郭(東二の丸、東三の丸)を置いて、さらに三段の中型郭(矢竹の丸、矢竹二の丸、惣門二の丸)が続き、その先に一段上がった大型の先端郭(惣門丸)が構えられている。本丸、兵庫丸、青木丸、栂尾丸および惣門丸が石垣構築であり、他の郭は土壇築成となっている。これら現在に残る遺構は、宇喜多氏重臣の戸川氏の手により整備されたと考えられている。
林道を上って来ると栂尾二の丸でそこが駐車場である。その北側の無線中継所が建つ小丘が栂尾丸で、ここから南へ順番に郭を見ながら登ると本丸に至り、途中の北二の丸には女軍の墓や碑が、本丸には城主碑や腹切岩がある。本丸南下の兵庫丸へ下りると立派な本丸の石垣が見られる。また、本丸から北東尾根へ下るとやや竹林が繁茂しているが通路はしっかりしており、支尾根の郭群を確認できる。惣門丸から西に向かい駐車場に戻る道へと進むと、途中に現在も満々と水を湛える底無井戸がある。
石垣も各所に見られ、本丸からの眺望も絶景で、順路も確りしており、山城を十分に楽しむことが出来た。

道 案 内
瀬戸中央道水島インターを下りて県道21号線の東方向に入り、道なりに3.6km程行った新念橋手前の交差点を右折する。県道22号線に入り道なりに4.8km程行った変則十字路で南方向に右折する。南下390m程でJR宇野線を渡り、130m程先の交差点を左折する。東に1.2km程行った右手が常山に上る林道の入口で、終点が広い駐車場になっている。

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現地の縄張り図

V字型の総延長300m強の規模

腹切岩

児島湾の眺望

栂尾丸の隅石垣