下津井城  No33202−01 (しもついじょう)       

三ノ丸の南面石垣 天守台

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 倉敷市下津井(城山公園)
築城年 : 文禄年間(1592-96)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、石塁、天守台、堀切、土塁、井戸、礎石、桝形、
訪城日 : 平成22年3月21日

歴   史
文禄年間(1592〜96)に宇喜多秀家が既存の小城を改修し、出城にしたと伝えられている。その後、慶長5年(1600)小早川秀秋の重臣の平岡重定が居城したが、慶長7年(1602)秀秋が病没しお家断絶となったため、代わって池田忠継が備前岡山藩主になり、下津井城には一族で家老職の池田長政を城主として置いた。池田氏は、徳川家康の内命を受け、慶長8年(1603)西国大名に備える瀬戸内海沿岸での戦略拠点にすべく下津井城の近世城郭への改築に着手し、慶長11年(1606)に完成させた。その際、廃城となった常山城の資材を利用したと云われている。
長政が没し、慶長14年(1609)に池田家一族で家老であった由之が播磨国佐用より3万2千石で下津井城主に付き、慶長18年(1613)姫路藩主池田輝政が没すると池田由之は播磨国明石へ移封となり、忠継の重臣荒尾成利・成房父子が城主に付いている。
下津井城は元和元年(1615)の一国一城令発布後も暫く存続し、寛永9年(1632)岡山藩の家督を継いだ光仲が幼小であり、因幡国鳥取藩池田光政との間で領地替えが行われ、米子城代であった池田由成が下津井城主となるが、西国の脅威もなくなった寛永16年(1639)幕府の命により下津井城は廃城となり、由成は天城に陣屋を築いて移り、天城池田氏として明治まで存続した。

構造と感想
下津井城は、瀬戸内海航路の中継港であり、内海北岸の要衝地である下津井港の背後に横たわる城山山頂に築かれた連郭式山城(標高88m)で、東西約560mに亘り構築された近世城郭である。本丸が最高所に構えられ、その北西隅に一段高い天守台が置かれ、東側に出郭、西側に腰郭が付されている。本丸部の南から西側に掛けて二の丸が配され、その西に堀切を隔てて西の丸が築かれている。西の丸の北から西側にかけては馬場が広がる。本丸出郭と二の丸の東側には三の丸、堀切を隔てて長い中出丸が続き、さらに120m程の自然地形の先に東出丸が置かれている。二の丸には桝形虎口が構えられ、本丸出郭の北側には井戸が設けている。
城跡は、上部建物を除き石垣や石塁、桝形虎口などがよく残っており、近世城郭遺構を堪能でき、さらに瀬戸内海の絶景を楽しむことができる。
なお、城門のひとつが倉敷市藤戸町天城にある正福寺に移築され現存しているようである。
 
 瀬戸大橋ルートの本州側最初の吊橋   西の丸への堀切・土橋    

道 案 内
「瀬戸大橋架橋記念公園」のすぐ南にある城山公園が城跡で、瀬戸中央道の児島インターを下りて最初の信号交差点を右折し南進する。900m程南進すると扇の嵶南交差点(下津井中学校前)に至り、左折して直ぐに右にカーブしながら470m程走行する。下津井中学校入口前で鋭角に右折し、西に860m程行った左手が瀬戸大橋架橋記念公園入口で、130m程入った左手の公園駐車場に車を停め、南側が城跡となる。遊歩道を歩いて馬場を抜けた、直ぐ上が西の丸である。

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