椿井城  No29342−02 (つばいじょう)       

南郭群中央の堀切 南郭群南端の堀切・土橋

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 生駒郡平群町椿井
築城年 : 戦国時代末期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、土橋
訪城日 : 平成24年5月26日

歴   史
椿井城は、在地土豪の椿井氏の居城であったとされ、室町から戦国時代までの間に築かれたと考えられている。その後、平群谷では筒井氏と松永氏の競り合いが続いたが、松永氏が滅亡する天正5年(1577)10月まで椿井城を押さえていたようで、椿井衆が嶋城を数度にわたって攻めたと伝承されている。
しかし、松永氏の滅亡後に椿井城は筒井氏に渡り、嶋左近が入ったとされるが、天正8年(1580)織田信長の破城令によって廃城となり、嶋左近の居城期間は三年足らずであった。
嶋左近は、松倉右近・森志摩と共に「筒井三家老」の一人で、信貴山城主松永久秀と幾度も戦っている。筒井順慶の没後に嶋左近は筒井氏を去り、文禄年間には近江佐和山城主石田三成に仕え、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで討死した。

構造と感想
椿井城は、平群谷の東側に連なる丘陵から張出し、北から南にのびる細尾根先端の二つのピークに連郭式に築かれた山城である。西宮城の詰城として築かれたと云われ、西方4kmにある信貴山城の松永久秀に対峙する筒井氏の重要な城砦であった。
構造は、中央鞍部を境に北郭群と南郭群に分かれ、北郭群が中心で、中央が一段低くなった70m×25mの南東コーナーに土塁を巡らす主郭と北側下方の東面に土塁を伴う小郭、南側に堀切を隔てた三段の段郭からなっている。北郭群の北端には堀切、堀切から主郭東面の半分まで横堀が続き、また、南半分には腰郭が付帯する。更に空堀や腰郭の切岸には竪堀が落されている。主郭の西側にのびる支尾根にも四段の段郭が設けられている。
南郭群は堀切で区画された南面に土塁を設けた南北二つの郭と北側下方に小郭とその東側の二段程の段郭からなっている。南端は土橋付きの堀切で遮断し、南郭群中央の堀切は本城中で最も鋭く高低差が大きく区画性が強くなっており、南北両端の郭は出郭として機能したと思われる。
本城は、筒井氏の松永氏への最前線に位置づけられる城砦だけあって、規模も300mを超え、堀切や切岸に厳しい防備が窺える城郭である。また、南郭群の北郭の東面には石垣が残存し、その北端に竪堀が落されており、見所の一つである。

道 案 内
北端の出郭と堀切
西名阪道の法隆寺インターを下りて北進方向に県道5号線へ入る。2.3km程北進した法隆寺東交差点で左折し国道25号に入り、2km程西進した竜田大橋交差点を右折する。国道168号に入り、道なりに1.4km程行った椿井交差点で国道は右折する。さらに590m程行った協和橋東詰交差点の右手に城趾案内標柱がある。そこで右折し200m程先で左折、75m程先で右折する。集落内の細い道を道なりに進むと山麓の常年寺前に至る。寺の南側から東側へ回り込むと椿井春日神社で、神社に駐車できる。回り込む途中にある「椿井」の説明板脇に登城路が設けられている。

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  南郭群の石垣        南郭群の堀切と切岸