赤埴城  No29212−03 (あかばねじょう)       

馬出しの虎口 北郭の東側竪堀

城郭の概要                  
別  名 : 赤埴上城
所在地 : 宇陀市榛原赤埴上俵
築城年 : 南北朝時代
形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、空堀、土橋、馬出し
訪城日 : 平成23年5月7日

歴   史
赤埴城は、南北朝時代に赤埴氏によって築かれた城砦である。
南北朝時代に南朝方として活躍した赤埴安朝から赤埴城主とされ、子の景安からは伊勢国司北畠氏に従い、宇陀七人衆(沢、秋山、芳野の宇陀三将に継ぐクラス)の一人に数えられた。
天正4年(1576)北畠氏が滅亡すると信安は郡山城主筒井順慶に従い、天正12年(1584)筒井順慶が死去し、翌年には筒井定次が伊賀に転封となり、大和国は豊臣秀長の所領となった。その後、信安の嫡子・安忠が慶長5年(1600)宇陀松山城に入った福島孝治(福島正則の弟)に仕えている。
 
馬出しの土塁と横堀        土塁上から北郭を望む

構造と感想
赤埴城は、赤埴上俵集落の最奥の台地に築かれている。山道沿いに立てられた案内板の直ぐ上方が城跡である。
赤埴城は、大和東山内や宇陀地方に見られる「山内型」城郭で、伊賀や甲賀に見られる館城が集落に群在する形態に似ているとされ、方形の館城を基本としつつ、時代が下るに従い、郭や馬出しなどが付加された縄張りとなったようである。
三角形をした台地上の北端に連郭の二つの方形館城とやや南東上方に離れた狼煙台からなっている。台地の先端に東と南面を土塁と堀がめぐる二段築整の郭があり、その南背後には鞍部を隔てて「天守台」と呼ばれる東と南面に土塁と堀がめぐる郭が続いている。天守台の南面中央には虎口が開き、虎口の前面をL字型の土塁と空堀で囲み馬出しとしている。なかなか見応えのある遺構であった。
なお、狼煙台は不明瞭で城郭遺構なのか確信できない程度のものであった。

道 案 内
国道25号(名阪国道)針インターで下り、国道369号を南下する。10.4km程先のトンネルを出て直ぐのT字路を左折し、国道369号を道なりに3.9km程行った内牧グランドを越えた高井交差点で鋭角に左折する。旧伊勢本街道へ入り、440m程行った高井バス停手前の十字路で右折する。北に60m程先のY字路を手に、20m程先の次のY字路も右手に進む。110m程行くとまたY字路があり、今度は左手に進み、その先を道なりに1.2km程行くとY字路に至り左手に入る。60m程先がまたY字路で右手に進み、道なりに560m程行くと右手に仏隆寺の駐車場がある。ここから右カーブと左カーブを過ぎたY字路で右手に進む。その90m程先で左手に入る。90m程先の交差部を直進し、70m程先のY字路を右手に、その先80m程行ったY字路で左手に入り150m程行くと赤埴上城の道標があり、ここから登る。

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