秋山城  No29212−01 (あきやまじょう)       

天守台の石垣 大手道の折れ曲る石段

城郭の概要                  
別  名 : 宇陀松山城、神楽岡城、阿紀山城
所在地 : 宇陀市大宇陀春日
築城年 : 南北朝期
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、空堀、竪堀、堀切、天守台、虎口、
訪城日 : 平成23年5月7日

歴   史
秋山城は、南北朝内乱期から宇陀の国人として活躍した秋山氏の本城である。
秋山氏は、室町時代初期に沢氏と共に宇陀郡を二分する勢力を有した有力国人で、伊勢の北畠氏に従い沢氏、芳賀氏と共に宇陀三将に数えられた。戦国時代の永禄3年(1560)になると松永久秀の力が宇陀に及び、その際に沢氏は追放されたが、秋山氏は松永氏に与しと見られ、この段階で国中(奈良盆地の中央)にも進出し、永禄11年に十市氏の龍王山城を占拠している。
しかし、天正13年(1585)豊臣秀長が大和郡山へ入部すると秋山氏は追放され、その後に秀長の家臣伊藤掃部頭が秋山城に入った。翌年には加藤光泰が、天正16年(1588)には羽田長門守、続いて多賀出雲守と交代し、多賀氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に与したため改易となり、代わって福島正則の弟・福島掃部頭高晴が伊勢長島より3万石で入城した。福島時代に名称を松山城と改め、城の改修、城下町の整備を行ったが、元和元年(1615)に大坂夏の陣で大坂方に内通したとして改易となり、秋山城も幕府の命で破却された。
同年に織田信長の二男・信雄が宇陀3万石と上州甘楽郡2万石を与えられ入部し、麓に陣屋を築き、高長、長頼、信武と四代続いた。当初は長山丘陵付近に構えた長山屋敷が藩政の中心であったが、寛文10年(1670)に春日神社西側に向屋敷、貞享2年(1685)に春日神社北側に上屋敷が造営され、藩政の中心が移っている。
四代80年に亘った織田家宇陀松山藩であったが、信武の代に至り藩の財政は窮乏し、打開策をめぐって重臣が対立し、元禄7年(1694)信武が重臣の生駒三左衛門、田中五郎兵衛を殺害し自害した所謂「宇陀崩れ」が起こり、信武の子・信休への家督相続こそ認められたものの、翌元禄8年(1695)丹波国柏原へ減封され2万石で移封となり、宇陀松山はその後は天領となった。

構造と感想
秋山城は、松山の町の東側に聳える標高472mの古城山山頂に築かれた宇陀郡内で最大の城郭である。当初は秋山氏の詰城として築かれたが、豊臣秀長の大和入封から福島高晴の時代までの間に中世城郭から織豊系城郭へと大改修され、今日に残る構造となった。
東西に長い山頂部に本丸を置き、東に天守台のある天守郭、西側に一段下がって御本丸、さらに下がって御加番が、天守郭の東側には大きく下がって大御殿、その南東側に空堀を隔て二の丸、大御殿の北東側に下がって御加番と広い郭が並んでいる。天守郭の北東隅に天守台が、二の丸東面の北端に櫓台が構えている。
本丸の西面と南面に虎口が開き、南下の帯郭に出られる。この帯郭は東端の大御殿、西端の御加番を結び、大御殿南東側の空堀へ開く虎口が搦め手に通じる。また、帯郭の南西部には西側から登る大手道が取り付き、屈折して登る石段や石垣が検出され、御定番から先には武者隠し・空堀・土橋などの防御施設が続いている。さらに下方には竪堀群が設けられ、大手道は間を縫って登っており、厳重な守りの連続である。
南を除く斜面はやや緩やかで、中心部を取り巻き山腹に空堀や帯状の郭、通路が巡らされている。
現在、発掘調査が順次進められており、山頂の本丸や城内道の周囲は石垣造りで、織豊系城郭の姿が明らかになりつつあり、今後の発掘、整備が期待される。

道 案 内
国道25号(名阪国道)針インターで下り、国道369号を南下する。10.4km程先のトンネルを出て直ぐのT字路を右折し、国道を西に620m程行った萩原交差点で左折する。そこから230m程先の榛原ロータリー交差点で右折する。その180m程先の榛原駅前交差点を直進し、伊勢本街道(国道370号)を道なりに5.0km程行った内原交差点で左折する。国道166号を1.6km程南進した信号交差点で左折し、東に360m入った慶照寺の駐車場に停めさせて頂く。
そこから南へ180m行った左手が春日神社で、城は春日神社の裏山にあり、神社の前を通って登山道が付けられている。

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天守・御本丸の南面


秋山城主之碑


城下西口関門


春日門跡

登り口


天守郭の西面


北東支尾根筋の二重堀切


西側山腹の横堀