鶏籠山城  No28229−01 (けいろうざんじょう)       

主郭の石垣 東背後の竪堀

城郭の概要                  
別  名 : 龍野古城、朝霧城
所在地 : たつの市龍野町上霞城
築城年 : 明応8年(1499)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、石段、土塁、堀切、竪堀、
訪城日 : 平成21年6月21日

歴   史
鶏籠山城は、明応8年(1499)塩屋城主・宇野政秀が赤松村秀の為に築城したとされ、初代城主・赤松村秀から政秀、広貞、広英と4代78年間に亘り龍野赤松氏は続いた。
赤松氏は、播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐が嘉吉元年(1441)将軍足利義教を暗殺し、山名氏を中心とした討伐軍に攻められ満祐は自害、宗家は滅び、播磨国は山名持豊の支配する所となった。
赤松氏の遺臣は、嘉吉3年(1443)の禁闕の変で南朝方に奪われていた神璽を長録の変(長録元年・1457)で取り返し、翌年(1458)主家の再興を幕府に願い出て、満祐の弟義雅の孫政則が加賀半国の守護に任じられ赤松氏の再興がなった。
その政則は、応仁の乱(1467〜77)で東軍の細川勝元の命を受け播磨を攻め旧領を回復、文明元年(1469)に本城となる置塩城を築城した。
赤松政則には側室の子である村秀(塩屋城主・宇野政秀の養子)がいたが、細川勝元の娘である正室に遠慮して婿養子・義村を跡継ぎにし置塩城主としたことから、村秀の為に鶏籠山(けいろくざん)に新城を築いて与えたとのことである。
天正5年(1577)織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨に進攻して来ると、広英は戦うことなく城を明け渡し、天正9年(1581)には蜂須賀正勝が城番となり、その後も福島正則、木下勝俊、小出吉政、石川光元(代官)と秀吉配下の大名たちが在城した。
山上から山麓へと城の中心が移った時期は定かではないが、本多政朝が城主になった元和3年(1617)以後のことと考えられている。
なお、広英は天正13年(1585)但馬竹田城を与えられたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際して西軍に属したものの、西軍の敗戦後に東軍へ寝返り鳥取城攻めに加わり戦功を挙げるも、城下に火を放った責めを問われ鳥取の真教寺で自刃に追いやられている。

構造と感想
鶏籠山城は、山裾の龍野城背後の鶏籠山山頂に築かれた山城で、龍野古城とも呼ばれる。
鶏籠山は、山陵から南東に張出した独立丘状の北西から南東に細長い二つのピークを持つ山塊である。標高218mの北ピークに東西約20m、南北約14mの野面積みの石垣を伴った本丸を置き、その南北に腰郭を付帯させ、東にのびる支尾根上に小さな段郭を連続されている。北端には竪堀の落ちる堀切を設け遮断、その先は自然の鞍部となっている。南のピークには東西約14m、南北約27mの二ノ丸を配し、北側に一段、南側に比較的広い七段ほどの段郭を設け、南の先端および西側に横堀と土塁を設け防御している。この横堀の間に大手道が取付く。二ノ丸にも各所に野面積みの石垣が残っている。本丸部と二ノ丸部の間も削平され二ノ丸と同等以上の広さがある。
本丸や二ノ丸に残る近世城郭を思わせるような石垣に石段は、何時どの城主が整備したのだろうか。思った以上に見所のある城砦で、訪れた甲斐があった。

道 案 内
山陽自動車道龍野インターを下りて県道29号線を北に1.2km程行った富永交差点で左折し国道179号に入る。北西に690m程行った龍野橋西詰交差点で右折、北に340m程行った龍野旭橋交差点を左折する。西に350m程行って右折すると龍野城で、無料駐車場がある。
城跡へは龍野城の御殿左奥から大手道と紅葉谷ルートの登山道が整備されており、大手道から尾根筋に出て城跡を縦走し背後の鞍部で左手に下りると鳥ヶ撓番所跡、井戸・泉水跡、侍屋敷跡を通って脇坂氏上屋敷跡へと下りることが出来る。

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南西よりの遠景          本丸の虎口石段