笹ノ丸城  No28227−02 (ささのまるじょう)       

主郭西側の横堀 主郭の虎口

城郭の概要                  
別  名 : 広瀬城、山崎の城、熊見城、笹の丸城、
所在地 : 宍粟市山崎町横須
築城年 : 貞和年間 南北朝期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、空堀、虎口、
訪城日 : 平成25年3月23日

歴   史

篠ノ丸城は、貞和年間(1345〜49)に赤松則村(円心)の次男・貞範が築城したとされる。
播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐が嘉吉元年(1441)将軍足利義教を暗殺し、山名氏を中心とした討伐軍に攻められ自害、赤松氏宗家は滅び、その時、篠ノ丸城は赤松氏一族の広瀬満親が城主であったが、これも討伐軍に攻められ落城したようである。
この結果、播磨国は山名持豊の支配する所となったが、赤松氏の遺臣は、嘉吉3年(1443)の禁闕の変で南朝方に奪われていた神璽を長録の変で取り返し、長録2年(1458)主家の再興を幕府に願い出て、満祐の弟義雅の孫政則が加賀半国の守護に任じられ赤松氏が再興された。
その政則が応仁の乱(1467〜77)で東軍の細川勝元の命を受け播磨を攻め旧領を回復、この際に南北朝期からの家臣であった宇野氏を長水城に入れ、篠ノ丸城も宇野氏に守備させた。
赤松氏の衰退と共に宇野氏は西播磨で勢力を拡大するが、天正8年(1580)織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播磨侵攻の前に長水城とともに落城した。その後に黒田孝高が入城するが、天正15年(1587)豊前中津に12万石で移封となり、代わって鶏籠山城(龍野城)から木下勝俊が入封、麓に山崎城を築き笹ノ丸城を廃したとされる。


西端の堀切                北郭の虎口

構造と感想
笹ノ丸城は、菅野川と伊沢川の間に挟まれ北西から南東に延びる丘陵東端の標高324mの篠山山頂に築かれている。
構造は、山頂に南面と西面に土塁と横堀を巡らした東西約40m、南北約50mの主郭を置き、丘陵続きとなる西尾根筋に二郭と三郭を連ね、西端の鞍部で三重堀切を設け遮断している。主郭の南側への張出しには三段の腰郭を、北に延びる支尾根には四郭と二列に六段の段郭が林の中に続いている。この他にも二郭と三郭の間、三郭南西隅下方、主郭の西側にも郭は設けてある。どの郭も方形を意識して造られている。城の北西側全体にL字状に犬走り、横堀、土塁を並行に巡らし、その下方に畝状竪堀群を落し、強固に防備している。東側と南側には犬走が巡らされている。虎口は主郭南面に平入り虎口が、四郭東面と二郭・三郭間に桝形状の窪地を伴う虎口が開口している。
主郭の近辺は木々が切り払われ、草刈も行われおり、手入れが行き届き、南への眺望が開けているが、北西斜面は未整備で横堀や畝状竪堀などは十分に見られない状態である。

道 案 内
中国自動車道山崎インターを下り、国道29号を北進し、1.2km程行ったしそう農協前交差点で左折する。西に120mの突き当たりで左折、40m先で右折し、ここから道なりに1.5km程進むと左手に駐車場があり、その80m程先の右手に城跡への登り口がある。登ること20分程で山頂の城跡に着く。

登り口    城跡 TOPへ 戻る