篠ノ丸城は、貞和年間(1345〜49)に赤松則村(円心)の次男・貞範が築城したとされる。
播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐が嘉吉元年(1441)将軍足利義教を暗殺し、山名氏を中心とした討伐軍に攻められ自害、赤松氏宗家は滅び、その時、篠ノ丸城は赤松氏一族の広瀬満親が城主であったが、これも討伐軍に攻められ落城したようである。
この結果、播磨国は山名持豊の支配する所となったが、赤松氏の遺臣は、嘉吉3年(1443)の禁闕の変で南朝方に奪われていた神璽を長録の変で取り返し、長録2年(1458)主家の再興を幕府に願い出て、満祐の弟義雅の孫政則が加賀半国の守護に任じられ赤松氏が再興された。
その政則が応仁の乱(1467〜77)で東軍の細川勝元の命を受け播磨を攻め旧領を回復、この際に南北朝期からの家臣であった宇野氏を長水城に入れ、篠ノ丸城も宇野氏に守備させた。
赤松氏の衰退と共に宇野氏は西播磨で勢力を拡大するが、天正8年(1580)織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播磨侵攻の前に長水城とともに落城した。その後に黒田孝高が入城するが、天正15年(1587)豊前中津に12万石で移封となり、代わって鶏籠山城(龍野城)から木下勝俊が入封、麓に山崎城を築き笹ノ丸城を廃したとされる。
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