長水城  No28227−04 (ちょうすいじょう)       

主郭の石垣 二ノ丸北方向

城郭の概要                  
別  名 : 広瀬城
所在地 : 宍粟市山崎町宇野字五十波、大谷
築城年 : 文和年間(1352〜56)頃
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、堀切、井戸、
訪城日 : 平成25年3月23日

歴   史
長水城は、文和年間(1352〜56)頃に播磨守護であった赤松則祐が長水山の山頂に築城し、兄範資の四男・師頼(広瀬氏の祖)に守らせたのが始まりと伝えられる。
五代目広瀬親茂の時、赤松宗家の満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱(嘉吉元年・1441)を起こし、長水城も山名持豊を中心とする討伐軍に攻められ同年9月に落城し、廃城になった。
しかし、長録の変(1457)の功で赤松氏再興を果たし、応仁の乱(1467〜77)で山名氏と争い播磨・備前・美作の守護職に復帰した赤松政則によって文明元年(1469)長水城は修築され、同族の宇野満利が城主として入城した。
その後、宇野氏は赤松氏が衰退するに従い自立し、長水城を本城に篠ノ丸城や香山城などの支城を築き、北西播磨一帯を支配する勢力へと成長していった。
しかし、天正5年(1577)織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨に進攻すると、長水城の宇野政則と次男・祐清が毛利氏に付き、信長に付こうとした長男・満景を殺害するが、天正8年(1580)1月15日毛利方として最前線で戦っていた三木城主別所長治は兵糧攻めにより降伏、同年4月長水城も秀吉軍に攻められ、5月9日内通者の放火によって炎上し落城、政頼父子は城を脱出したが追手によって討ち取られた。
以後、長水城は再建される事なく廃城となり、昭和9年(1934)宇野氏の臣・石丸氏の裔渡辺日妙尼により日蓮宗の霊場として長水山信徳寺が建立され現在に至っている。

構造と感想
 (縄張り図)
長水城は、標高584.8mの長水山山頂に東西約10m、南北約23mの主郭を置き、主郭から南・北と北東にのびる尾根上におよそ100mに亘って段郭を配している。主郭の周囲は高さ6mもの高石垣が積まれている。南尾根には二の郭と鞍部を隔て南郭を、北尾根には小さな段郭と先端に姫の郭を、北東尾根には広さのある段郭を連続させた東郭群を配している。さらに南郭から南東に延びる尾根には三の郭群が設けられているようである。
現在、主郭には信徳寺の本堂が、北東へのびる尾根には庫裏等の住家が建てられ、その切岸にも石垣が築かれている。庫裏等の建物に居住の気配は感じられず、今は無住になっているのか。南郭からは360度のパノラマ展望を楽しむことが出来る。  

道 案 内
長水城の登り口は二ヶ所あり、宇野から登る方が大手道だが比高450mで60分以上掛かるので、五十波(いかば)方面の搦手からは山道で1km程と近い。
搦手登り口は、林道の終点で駐車も出来る。中国自動車道山崎インターを下りて国道29号を北に3.8km程行くと梯川を越え直ぐの西五十波バス停の手前で左折する。(左手に長水城の案内看板がある。)左に川を見ながら西に720m程行ったT字路を左折する。その先は道なりに林道を登って行くと突き当たりが登城口で右手脇に案内板が建てられている所が登り口である。

搦手登り口   城跡 TOPへ 戻る

主郭南面と城址碑         南郭を望む